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それらの現象は5分ほど、立て続けに起きました。
ユタカのジュースを入れていた、コンビニの空き袋は、彼の枕の右に置いてあったのが、私と彼の目の前で、フワッと左側に舞い上がったのです。
その時、息子は、怖気ついたように「うわあっ!」と叫び、その袋を避けようと、体を思わずひねっていました。
それ以外にも、ベッドサイドに置いていた子供の胃薬、ベッド下に置いていた彼のソックスなどが2mほど離れた部屋の中央へと投げ飛ばされました。
そして、ユタカがいきなり驚いて私に声をかけました。
「ねえ!フルイの気配が窓の外にする!部屋に入ろうかって浮いて迷ってる......あっ!もう入って来ちゃった!」
「えっ?『フルイ』って、あの古井なの?」
「ああ、もう部屋の中にいる!お母さんと僕のベッドの間に立ってるよ!ねえ、見えないの?すぐ、ほら、そこにいるのに!」
ユタカはもどかしそうに、必死になっていました。
古井というのは、ユタカが小学5年の時、仲良くなった少年でした。京都から転居してきて、我が家にもよく遊びに来るようになり、何度か泊まりにも来たほど、まるで兄弟のように始終遊んだ仲良しでした。
しかしその子の父親は義父であり、家では妹ばかりが可愛がられ、彼は母親にも素気無くされていたということでした。
その古井が、6年生になった頃、急に「お前んちの母さんは優し過ぎるんや。お前は甘えんぼや」と事実とは異なることを大袈裟に言い出し、他の子供たちにも言いふらし出したのです。途端にユタカは皆の除け者になりました。
それは中学1年まで続き、根も葉もない噂と言葉のいじめがひっきりなしに横行し、学校側では対応しきれませんでした。
ユタカが中1の終わりから不登校になってしまったのは、古井の言動が根本の原因だったのです。
「もう、古井の気配、無くなっちゃった。どこか行ったみたい」
ユタカのその言葉と共に、物が飛び交う現象はふっと鎮まりました。私は、なぜ旅先に、あの古井が出てきたのだろう、と不思議でなりませんでした。
しかし、それよりも、旅行にかけた大きな期待が破れたことは、私の心に大きな黒い穴を開けました。
何も起きないだろうと思いつつ、部屋に入るとまず、私は、お経を入り口や窓付近に何枚か貼っておいたのです。それらが何も効を奏さないことが、私には大変なショックでした。
旅に出れば、何らかの解決の糸口が見つかるだろう、具体的には、「旅に出れば何も無いだろう」との期待が、旅館の寝室に入って、ほんの1時間15分で見事に砕け散ったからでした。
私が最初にその部屋に入って感動した白い高い天井は、今でも思い出す事ができます。
あの清々しい感動が、現在では、あの「すみませーん。お部屋のお掃除に来ましたー」という、溌剌としたよく響く元気な声と共に思い起こされ、それは既に恐怖の記憶となっているのです。
あの声を聞いた途端、目が覚めた時に視界に入ったのは、その白い天井でした。
あの元気ではち切れそうな声の女性は、一体誰だったのだろうか。部屋を開ける音も気配も無く、声だけが明るく高らかに響き渡った―
この事実は、私を後々までも震撼させましたが、7月中旬以降からの出来事を思うと、この「声」は、ほんの序の口だったのでした。
私とユタカは、部屋に散らかった物をひと揃い、拾い集めると、隣室の両親の部屋に電話をかけました。父が、「もしまた物が飛んだりしたら、飛んだものを集めて部屋に来いよ」と言っていたからです。しかし、電話には誰も出ませんでした。
私は、二人とも寝込んでいるんだろうと思い、仕方なく、落ちた物を抱えて、部屋を出ると、両親の部屋のドアを何回も何回も必死で叩きました。
その時の私は、「旅先でもこんなことが起きてしまった。自分の家が原因ではないのだ。転居は無駄なんだ」と、泣きそうな気持ちでいっぱいでした。
やっと父がドアを開けてくれ、私と息子は何かから逃げるように、急いで部屋に入りました。
「また物が飛んだのよ。部屋を片付けて、ちょっとベッドで寝ていたら、いきなり女の人の声がするから―」
「声?どんな声だった?」
父が私に心配そうに尋ねるので、私は続けて説明しました。
「『すみませーん。お部屋のお掃除に来ましたー!』 って、すごい元気な若い女性の声。だから、ねぇ」
私の言葉にユタカも頷きました。
「うん。僕も聞いた。だから、てっきり旅館の人が掃除に来たのかなって思ったんだよ」
父は、旅先でも怪現象が起きてしまったことに、ショックを隠せない様子で少し黙っていましたが、しばらくして、沈んだような調子でこう答えました。
「旅館の人が、今更部屋に掃除に来るわけないだろう。お客がチェックインする前に、掃除なんてのは済ませておくもんだ、普通。だから、その声はやっぱり奇妙だよな」
父が、私達の聞いた声を 「やっぱり奇妙だ」 と肯定すると、私は余計に怖ろしさで頭がいっぱいになり、元の部屋に戻れない気がしてきました。
私達家族が、一部屋に集まっていると、急に、私とユタカのいた部屋から、壁を 「ダン、ダン、ダン!」 と叩く音が聞こえてきました。
「まあ……旅行に出てまで、あの音がする……!」 母は、顔をしかめました。
ユタカは、しばらくその音を聞いていましたが、音がふっと止んだ時、急に、「僕、部屋がどうなってるか、見て来る」と言い出しました。
「えっ!あの部屋に一人で行くの?大丈夫?」
私は驚いて止めようとしましたが、彼は 「平気、大丈夫だから」 と言って、元の部屋に行ってしまいました。そして、すぐに私達の部屋に走り込んで来ました。
「ねえっ!大変だよ!クローゼットが開いて、中に入れてた服がめちゃめちゃになってる!」
私達が皆で隣室へと行くと、ユタカの言った通り、クローゼットが大きく開かれ、私やユタカの旅行用の服や、ユタカの着替えの靴下などが、部屋の四方八方に投げ飛ばされたように散らかっていました。
服を吊るしていたハンガーも、クローゼットから6mほども離れた部屋の窓際に転がっていました。
「ひどすぎない?なんでここまでされるんだろ?まるで、私達に怒り狂っているみたいじゃない?」
私と母は、部屋に散乱した服などを、クローゼットの中に仕舞い込みました。
「ねえ、私、この部屋にいたくない……」 私は気味が悪くなり、両親に訴えました。
「でも、寝る時はどうする?4人で俺達の部屋には寝れないぞ」
「うーん……どうしよう……寝る時に、また考える。とにかく今はいたくないの」
父は、それなら必要なものだけ持って、夕食後まで隣の部屋にいなさい、と言いました。
そんな時、ユタカが、「僕、ちょっとこの部屋にいてみる」と言い出しました。
私は驚きましたが、息子は 「面白そうだから」 などと言うのです。
きっと、恐怖感が麻痺したんだな、と私は思い、仕方ないので、彼の言う通りにして、彼を 「若い女性の声が響いた部屋」 へと残し、両親と3人で隣室に入りました。
すると、間もなくして、再び壁の音が、「ダンダンダン!ダダダン!」 と私達のいる部屋の、ベッドの上あたりから聞こえてきたのです。
その音は壁全体を揺さぶるように大きく激しく、どこをどう叩いたら、こんな音が出るのかと思われるほどでした。
父は、隣室に電話をしました。すると、一人いるユタカが出ました。
「おい、今、こっちで凄い壁の音がしているんだ。お前のいる部屋から叩いているように聞こえるんだ。お前、壁の音がするか?」
すると、意外な返事が返って来ました。
「壁の音?いや、何もないよ。何も今、この部屋起きていないけど」
父は、呆れかえったように、私と母を振り返りました。「何も起きてない、音も聞こえないって言っとる」
その間も、絶え間なく、こちらでは激しい壁の音が続いていたのです。父は、私に、隣の部屋に行ってみたら、と促しましたが、私は 「嫌だよ、怖くて行けないよ」と尻込みしてしまいました。
「こんなに怖がっているんだ。可哀想だから、お前、行ってみてくれ」
父は、今度は母に頼みました。母は、少し考えてから、勇気を奮い起したように、「じゃ、行ってみる。あの子がどうもないって言うんだから、きっと平気でしょ」と、さっさとユタカの所に行ってしまいました。
母が隣室に行っても、壁の大きな音は続いていました。私は、母のベッドに腰掛けながら、心臓が凍りつきそうでした。
「大丈夫なのかな―こんな凄い音がしているのに……」
「よし、電話してみよう」
父は、再度、隣室に電話をかけました。今度は、母が出ました。
「なあ、まだこっちは壁の音が激しいんだよ。そっちはどうか?」
すると、母の返事も、さっきのユタカと同様だったようでした。父は不思議そうに、「何もないらしい」と、私に受話器を渡しました。
「もしもし?何も起きていないの?」
「あ、万里子。何にも起きてないよ。ユタカと二人でいるけどね、しーんと静かで平和そのものよ」
「ええ?ホントに?こっちは相変わらず凄い壁の音よ」
「ふうん、変ねえ。でもね、こちら来て見てごらん。大丈夫だから」
母の声は穏やかで楽しそうにさえ聞こえました。
私は、思い切って、元の部屋に戻ってみました。母とユタカが、私を見て、「ね、何も起きてないでしょ。ここ静かだよ」とにっこりしました。私は不思議でたまりませんでした。今度は、私の方から父に電話をしました。
「ねえ、本当にここ、静かでどうもないよ。そっちは?」
すると、「もう壁の音がしなくなった。お前がそっちに行った直後に、音が止んだ」と、驚いた調子の返事が返って来ました。
5月中旬以来、不思議なことが繰り返されてきましたが、壁の音に関しては、こんな奇妙なことは初めてでした。
旅行に出て、一方の部屋の者が壁の怪音を聞き、他方の部屋の者がその音は何も聞こえない、というのは何故だったのか。また、何故、私がユタカと母の部屋に行くと、音が止んだのか―
私は、家ではこんなことは無かった、と感じましたが、よく考えてみると、壁の音がする時、部屋の間仕切りを挟んで、「こちらでは聞こえるけれど、そっちはどう?」といった「実験」は試みたことはありませんでした。
ただの3LDK のマンションであるため、隣り合った部屋にそれぞれルームフォンなど置いてなかったからです。
だから、家であんな怪音がする時、もしルームフォンがあったなら、きっとこの旅館でやったことを試したことでしょう。家では、ただ「隣の部屋から壁を叩く音がする」と怯えていただけだったのです。
気がつくと、もう午後の6時近くなっていました。私達は、両親の部屋に集まり、その後、気晴らしにトランプなどをしていたのです。
父は、「もう、あれこれ考えても仕方がない。せっかく旅行に来たんだから、食事に行こう。ここはバイキングでおいしいぞ」と誘ってくれました。
しかし、今度はユタカが、急に「吐き気がするから、今行きたくない」と、ベッドに横になってしまいました。
とても苦しそうにうつ伏せになっているので、私は吐き気止めと安定剤を飲ませました。ユタカはそのまま、「じっと寝ていたい」と言いながら、眠ってしまいました。
「可哀想になあ。なんであんなに体調がいつも悪いんかなあ」
広々とした洋風の食堂で、好きなようにおかずを小皿に取り、私と両親は食事をしました。私は、ユタカをいじめていた古井という子の話をしました。
「私達が部屋に入ってね、若い女性の声がした後、物が飛び交い出したでしょ。その最中に、古井って子が入り込んで来たって、あの子言うのよ。いじめがあった時の記憶って、相当なストレスでしょう。だから、なかなか体調が優れないんだよね」
「へえ……なんで、その『古井』ってのが出て来たんかな。その子に何かあったのかな」
「何かって?」
「たとえば、まあ、事故に遭ったとか……病気で亡くなったとか……そんなことだよ」
父が首を傾げていると、母が吐き捨てるように言いました。
「ほんとにね、悔しいよ。あの子がユタカをいじめたんだからね。うちに泊まりに来た時は、あんなに可愛がって、お風呂まで一緒に入ったりしたのにね。悪いけど、事故でも病気でも、もしそうなっていてくれたら有り難いぐらいよ」
母が、古井のことを言う時には、このように悪しざまに言うのが、この頃には口癖になっていました。私も、あの子さえ、ユタカと仲良くならなければ、あの子さえいなければ、といつも恨むような気持ちが既に根付いていました。
私達は、とりあえずユタカが食べれそうなものを、食堂の人に頼み、お弁当にしてもらうと、部屋に7時40分に引き上げました。
その時には、ユタカは起きていて、テレビをぼんやりと眺めていました。「お腹が空いた」と言うので、持ってきたお弁当を開くと、彼はお刺身などをおいしそうに食べました。午後8時半には食べ終わったので、食後の胃薬と、安定剤を飲ませました。
「ねえ、またトランプしようよ。ババ抜きと神経衰弱」
ユタカは、トランプをしている間は、本当に楽しそうでした。私は、両親の部屋で、いつまでもトランプをしていたい、と願いました。それでも、時間はすぐに過ぎ、夜の11時になってしまいました。
「どうする?やっぱりこの部屋で、4人で寝るのは無理だろう」 父が私に尋ねました。
「うん……ああ、困ったなあ……床に寝るのは、ダメ?」
私がこんな子供じみたことを言っていると、ユタカが、「大丈夫だよ。僕と一緒だから。元の部屋に戻ろう」と励ましてくれました。
しぶしぶ両親に「お休みなさい」と言うと、私は息子と部屋に戻りました。
昼間の恐怖が何も無かったかのように、あの洋間は、その日の午後2時、初めて入った時のように、こざっぱりと新鮮で、ごく普通の旅館の部屋のように見えました。
私は顔を洗い、歯磨きをし、自分の寝る前の薬を飲みました。ユタカには、午前0時に、就寝前の薬を飲ませました。
エアコンはつけたまま、部屋の電気を消し、眠りに就こうとしました。なかなか寝付かれませんでしたが、いつの間にか眠っていたようです。
しかし、その眠りも、AM 1:15 には「ガタン!」という音で覚めてしまいました。また、いつもの異変が起きたのです。
日付は、6月16日になっていました。
この日の午前1:15~2:00 まで、止むことなく、ベッドサイドの私のバッグやペットボトル、本やペン、ベッド下のスリッパなどが部屋の隅へと「バーン!」と投げつけられたり、ベッド正面の部屋備え付けのタンスの引き出しが勝手に開いたかと思うと、中のバスタオルなどがこちらにバシッ!と叩きつけられました。
椅子の背にかけた衣類も、私達二人の方へと飛んで来ました。
私のベッド左側にある机の上の蛍光灯が、誰も触れないのに、クイクイと向きを変えるのを見て、ユタカも「あっ! スタンドが今、向きを変えた!ほら、ほら今!」と仰天した様子でした。
そして、この怪異の最中、彼は再び「古井の気配が窓から入って来た!」と怖ろしげに言い出しました。
「今、アイツが部屋にいる!窓際に立ってる―あっ!また僕たちのベッドの間に来た!」
「やだ!本当に?」
私には、その気配が分かりませんでしたが、鬼気迫る恐怖で、思わずベッドの左隅に体をずらしました。
その「古井」がペットボトルを掴んだ、とユタカが言った途端、ペットボトルが数本、部屋の四方八方へと投げられたのです。
この現象にどうしたら良いのか、私は困り果て、父の部屋に電話をしました。今度は、すぐに父が出ました。きっと、父も寝つかれなかったのかも知れません。
両親は、家と同じように、小物が散乱した部屋を見て、びっくりしたようでした。もう午前2時を過ぎていました。
「どうしてまた―お経は効き目が無いのかなあ」
父は部屋の入口にドアを開けて寄り掛かり、私とユタカは入り口近くのクローゼットのそばに立っていた母の傍らに行きました。
母は、睡眠が妨げられ、疲れた様子で、クローゼットにもたれました。ユタカも、母の右側に並んでもたれかかり、「ふぅ~」とため息をつきました。
その瞬間、クローゼットが、「ガチャッ!」と左右に勢いよく開かれ、中に掛けていた私の衣類や、上の段に畳んで置いていた子供のシャツが、バサッ!と床に放り投げられたのです。
突然のことだったので、母とユタカは「うわっ!」と体勢を崩し、同時にその場から飛びのきざまに背後を振り返りました。
ユタカは、私の服がくしゃくしゃになっているのを見て、「ひどいなあ、お母さんの服がこんなに―」と指さしました。
私は、目の前で起きたことに、もう何も言えず、ただ心臓だけが飛び出しそうに鳴っているのを感じていました。
ちょうどその時、旅館の守衛さんが私達の部屋の前を通りかかりました。
夜中の2時半頃、家族揃って、部屋の入り口で立っている姿に、こちらを不思議そうに眺めているのを見て、父が慌てて説明をしました。
「あ、あのですね、この旅館に泊まってから、この部屋でしきりに物が飛ぶんですよ。今も、家内と孫がね、このクローゼットに寄り掛かっていたら、急に扉が勝手に開いて、中の服がね、ほら、こんなに散らかってね。だから、眠れなくって困っているんですがねえ」
守衛さんは、「そんな戯言はごめんです」と言わんばかりに、愛想笑いを浮かべ、首を振って、その場を急いで立ち去りました。
多分、「変なことを言う客が泊まっているもんだなあ」とでも思ったのでしょう。
誰だって、午前2時半頃、いきなり「クローゼットが急に開いたりしたから寝れない」などと訴えられたら、そんな奇怪な経験が無い限り、「頭がどうかしてる」程度にしか思わないに決まっているのです。
普段は、冷静で慎重に物事を考える父が、何の面識もない旅館の守衛さんに、現在の私達の窮状を訴えたくなったのは、父も、「誰でもいいから、話を聞いてくれ」という、切羽詰まった心境になったに違いありません。
その晩は、旅行に出て最初の晩でした。
1泊目だと言うのに、もうこんなに夜中に怖い目に遭わなければいけないのか、と思うと、残りの3日間が気がかりでした。
私は、「もう、今晩この部屋で眠ったりなんてできない」と心細いばかりでした。しかし父は、睡眠不足と疲労が溜まって来たのか、やや苛立った調子で、「もう、どうするか?俺は向こうで一人で休むぞ!」と自分の部屋に戻ってしまいました。
仕方なく、私は、自分のベッドに母と寝ることになりました。ユタカは、AM3:00 には寝てしまいましたが、私はAM4:00 まで、再び聞こえてきた壁の「ドンドンドン!ダーンダーン!」という怪音のため、ほとんど眠れませんでした。(To be Continued……)