2010年9月1日水曜日

第6章「幽現の渦」―2: ハイテク機器の怪―part1: 襖に飛び散る血痕

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 そのように、気がつかない間に散乱していた丸められたティッシュを、私はそれからどう始末したか、あまり覚えていませんが、確か、母を起こして、その有り様を見せ、二人でゴミ箱に捨てたように記憶しています。

 18日の昼間は何事もなく過ぎました。ただ、息子は一晩中、「不眠状態だった」と元気がありませんでした。午前4時頃、父に叱責されてゲンナリし、朝は8時半に起こされるため、熟睡した感じがないのも当然だったでしょう。
 
 私も熟睡感がないものの、両親とダイニングフロアに出かけ、皆疲れた顔でバイキング料理を小皿に取り分け、庭園の見える窓際で食事をしました。

 「いろいろ観るところがあるけれどなあ。庭園を散歩、してみるか」

 父がそう誘ってくれましたが、私は睡眠不足から、動悸や頭痛がしました。

 「ごめん。とてもダメ。部屋でお昼寝してからなら......」

 「あの子は、これくらいなら食べれるか」

 パンをユタカの分、ハンカチに包んで部屋に持ち帰りましたが、ユタカは吐き気でなかなか食べられませんでした。やっと午前10時半頃、ジュースと一緒に食べた程度でした。

 昼も、ユタカは「あまり食欲ない」と言い、午後の2時頃ジュースをすすっただけでした。それでも、晩は、皆で一緒に食堂に降りて、普通に食事ができました。
 
 これが、息子がこの旅行で「初めておいしく、量もちょうどよく食べれた」夕食でした。

 起きている時は、皆、不眠状態なので、私一人でベランダから綺麗な建物や庭園をデジカメで撮ったり、廊下に出ては、豪華な彫刻の置物などを撮影して回りました。それ以外、一切外には出ず、ほとんど昼寝か、起きている時は、皆で食事までトランプ、といったことの繰り返しでした。

 このホテルに泊まっても、怖いことが起きたというのに、「せっかく立派なホテルに宿泊しているんだから」という、ごく尋常な旅行客の気分が時折は蘇ります。

 そこで、夕食後、ユタカは修学旅行のようなウキウキした調子で、「1階の土産物店見に行こうよ」と私を誘いました。

 その店で、ユタカは日本刀や龍のデザインのキーホルダー、私はフクロウのキーホルダーを買いました。こういう他愛ないことが、この「嫌な旅」のせめてもの慰めでした。

 私がフクロウを選んだのは、デザインが可愛く、夜はほんのり光るから綺麗だと気に入ったためでしたが、「幸せを呼ぶ鳥、フクロウ(不苦労)」との説明に何か救いを求める心が動いたのかもしれません。

 土産物を買い、少し気持ちも晴れた私は、昨夜の大浴場へとまた入りました。特に異変はなく、昨夜と同じく、私が11時過ぎに部屋に戻ると、両親とユタカはもうぐっすり寝ていました。

 私は寝る前、テーブルの上に置きっ放しの父のペンやメモや爪切りなどの小道具や皮の小銭入れや財布、鍵や眼鏡などの小物を廊下のクローゼットに入れました。

 また、父が寝る前まで飲んでいたお茶の缶や薬などは、父が「紛失した」とびっくりしないよう、窓脇の板の間の座椅子の下などに押し込みました。

 これは全て「飛んだら怖いし危ないから」との警戒心からだったのです。

 あらかた家族の布団の周囲を「安全」にしたものの、私の緊張感は夜が更けるにつれて強まっていきました。

 日付が6月19日となり、F町のホテル2泊目の晩となりました。この晩を乗り切れば、旅行も終わり、父は大阪へ、私と息子と母は、兵庫の山奥のマンションへと戻るのです。

 しかし、「無事この夜を乗り切っても、家に戻れば、また何が起きるか」と心配でたまらず、落ち着く場所が永遠に失われてしまったかのような不安でいっぱいでした。

 寝る前に、いつもの習慣で、家ではワインというところを、旅先では梅酒を買い置いたのを飲んでいました。その晩は、息子は「気配」というもので目が覚めたりはしませんでした。

 私の布団の右側には、木製の縦格子の窓が壁にはめ込まれ、ほんの1cm ほどの隙間から、洗面台やトイレのドアが見えました。

 午前1時半から2時にかけて、そのトイレの方から、中の壁を「ドン、ドン、ドン」と鈍く叩く音がしました。

 私はギョッとし、寝ている家族を見渡しました。皆、布団にくたびれ果てて眠り込んでいるのに、トイレから音がするのです。

 私は薄気味悪くなり、妙な寒気が起こりました。そして、そういう時に限って、トイレに行きたくなるのです。けれども、せっかく寝ている家族を起こしたくありませんでした。ユタカが、こういう場合は不思議と頼りになるので、息子を起こそうとも思いましたが、それも可哀想でした。

 結局、私一人で、その音が止むまで我慢することにしました。そして、心の中で、「どうか壁を叩かないで下さい。私たち家族を苦しめないで下さい」と祈り続けました。

 そうした「祈り」が効いたのかどうか、偶然にも、徐々に音はしなくなり、もとの静寂が訪れました。私は恐る恐るトイレに行きましたが、何も異変はありませんでした。

 それでも、「夜中のトイレ」というのは、何もなくても恐ろしいものです。慌てて手を洗い、部屋にそっと入ると、静かに襖を閉めました。

 「もう、大丈夫かもしれない」

 そう思い、残っていた梅酒をまた飲み始めた時でした。私の足下に、何かが「ヒュッ」と飛んできて、布団に落ちました。

 それは、洗面所の宿泊用の、小さな歯磨きの白いチューブでした。

 状況から考えて、襖は閉めてあるのだから、私の布団右横の、格子窓の隙間から投げ込まれたのだと思われました。

 「嫌だ、なんで洗面所のチューブが......」

 そう思い、ユタカのよく言う「古井」の仕業だと感じ、再びゾクッとしました。そのチューブは拾っておき、私のバッグに入れ、朝、母に「夜中にこれが飛んできたのよ。襖も閉めてて、部屋から隔たった洗面所に置いてあったのにー」と説明しました。

 母は、「まあー、そんな所から、ねえ。隙間があれば、どこからでも狙うのね」と眉を寄せました。ただ、ユタカにこのことを言うと、「歯磨きのチューブくらい、不思議じゃないよ」と意外な返事が返ってきました。

 「なんで不思議じゃないって思うの?」
 
 「別に。もしかしたら、お母さんが歯磨きして、そのチューブをうっかり部屋に持って入ったのかもしれないからさ」

 私は、息子がいつもは「何かの気配だ」とよく言うのに、この小さなチューブに関してはごく自然な解釈をしようとしていることに、少し妙な印象を受けました。

 多分、旅行の終わりまで、異様な出来事に対して込み入った分析をしたくないー彼は、こんな気持ちだったのかもしれません。

 ユタカは、「昨夜はよく眠れて、朝の6時半に起きちゃった」と少し元気そうでした。朝食は、8時20分に、パン、牛乳、卵、サラダ、ヨーグルトなどをおいしそうに食べました。私はその様子をデジカメで撮りました。

 朝食後はもう、荷物をまとめて、チェックアウトの準備です。私は、片手に携帯を携えつつ、「怖かったけれど、綺麗だったホテルの思い出は残したい」と、ひとり皆に少し遅れつつ、ホテル内の装飾や、赤い絨毯を歩く家族の後ろ姿を撮影しました。

 2008年6月19日、朝10時にF町のホテルをチェックアウト。後は、JR の駅まで送迎バスを待つだけです。その時も、携帯で家族同士、撮影をしました。

 しかし、そうやって撮影した写真も、8月上旬には「不吉なことの起きた場所の写真や奇怪な音声を録音したテープは、残しておくと大変なことになる」との理由で、すべて消去してしまったのでした。

 その理由を教えてくれたのは、ユタカの小学校時代の知り合いだった榊(さかき)君という、1歳上の少年でした。

 榊 真人(マサト)君は、ユタカと同じように中1の終わり頃にいじめに合い、「同じ町内に住んでいると級友に出会って嫌だから」と、1年半ほど田舎の親戚のお寺に住んでいたそうです。

 その榊君は、田舎でフリースクールに通い、合宿を体験した後、「久しぶりに元のマンションに戻ってもいい」と、2008年8月に帰ってきていたのです。

 8月以降の我が家の超常現象は、11月末まで続きましたが、榊君は度々我が家を訪れ、アドバイスをしてくれた一人であり、奇怪な事象に苦しんでいた私たちの心を支えてくれたという意味で、大きな力となった存在でした。

 様々なことが起きた旅行を終えても、元の家に戻れば、また大きな悪夢の渦中に自ら入り込むのと同じことでした。

 その悪夢の爪は、徐々に鋭さを増し、巨大な竜巻を起こそうとしていました。その目に見えない呪わしい爪痕が、7月以降、我が家をますます蝕んでいくことを、私たち3人が知るはずもなく、父とF町から大阪行きの列車に乗り、いつもの駅で、父と「またね」と別れたのです。

 午後12時半に、9年間住み慣れた町の駅で降りると、私とユタカは駅前のローソンに行き、お昼のお弁当を買い、バス停で待つ母のもとに急ぎました。

 4日前の朝、「何事も旅先で起きませんように」と願って離れた家は、何事もないように、私たちを迎え入れました。それでも「久しぶり」と、ホッとした気分になれません。なぜなら、家中には相変わらず<般若心経>が張り巡されていたからでした。

 この旅行から帰宅した19日から、20日金曜日の夜半までは、不思議と何も起きず、久しぶりによく眠れました。

 また、ユタカがネットで<般若心経>を検索してくれたので、私はそれをカセットテープに録音し、19日の晩から、就寝する前、11時半位から、母とお経を3回は繰り返し唱えることを始めました。

 しかし、6月20日の夜半から21日土曜日の、ほぼ同じ時刻、AM 2:30 ~3:05 頃にかけて、再び現象は再開されました。

 ユタカが、「なんか古井の気配がする」と言うと、最初はクーラーの室外機をコンコン......と叩く音がし、次に壁の中から「コンコンコン!コンコンコンコン......!」と指の関節で叩く音が始まるのです。

 急いでお経のテープを入れたカセットレコーダーを壁につけ、故意にボリュームを大きくして流しました。

 すると、そのお経に抵抗するかのように、壁を叩く音も一層、大きくなりました。

 <般若心経>は悪霊を追い出す文言であるため「壁の中の悪鬼」は、そのお経の音声に苛立ち、牙をむいたのでしょうか。

 しかし、「ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらそう ぎゃーてい......」との悪霊を諭し追い払う、最後の部分にさしかかると、壁の異様な音は鳴りを潜め、お経が終わるのとほぼ同時に、音は鳴らなくなりました。

 「気配、消えちゃった」とユタカが言うと、本当に、何事もなかったかのように、部屋は静まり返り、空気も森閑とし、全くの静寂となりました。

 今現在は「悪霊を追い払う」目的で、<般若心経>を唱えたり、テープを流したりしていた、と書いてはいますが、2008年夏、特に7月中旬に至るまでは、私や家族には、あまり「霊が家に入り込んでいる」といった意識は薄かったようでした。

 ただ、<超常現象>が起きている、だからお経を貼ったり唱えたりすれば、何とかなるのではないか―そうした認識しか抱くことができませんでした。

 私は、「超常現象」と「心霊現象」とが当時はなかなか頭の中で結合しなかったのです。

 「超常現象ーポルターガイスト」というと、何か「物理的に不思議な現象」といった印象を受け、それだけでも恐ろしく感じますが、「心霊現象」、すなわち「何かの霊に憑衣され、夜な夜な霊たちが自分たちの周囲をさ迷っている」―

 そうした認識は、本能が拒絶していたに違いありません。

 しかし、もとを辿れば、「超常現象」も「心霊現象」も同じ一つの「怪奇現象」であり、「あの世の者たち」が引き起こす異常な状況であったのです。

 それでも、私が「これは完全な心霊現象なのだ」と認めざるを得なくなったのは、7月中旬以降であり、物理的に不可解な「超常現象」が起き始めた5月中旬から、実に2ヶ月の日数を経て、我が家の現象は確実に「霊の出現」へと急速にエスカレートしていったのでした。

 しかしその7月半ばに至るまでは、主に以前と似たような「物理的な不思議」が相変わらず毎日のように起こり、私たちを悩ませました。

6月21日と22日、土曜と日曜の朝、午前9時頃、母が起きると、リビング全体の照明が明々と灯されていました。

 リビングの天井には、食卓の上に白い円状の白熱灯、テレビやピアノを照らすために花の蕾が開きかかったデザインのシャンデリアを備え付けていました。

 それらは、就寝時はどちらも消し、台所の流しの蛍光灯だけつけているのが普段の習慣なのです。

 夜は何かと異変が起こりますが、母は家族の中で一番寝付きがよく、いつも私より早く起きる人でした。だから、一晩中消していたはずのリビングの照明がどちらも朝にはついていたことに、非常に驚いた、と私を起こして話してくれました。

 また、23日月曜日の夜半のことでした。午前1時40分頃、ユタカは「妙に気配、感じるなあ」と言いながらトイレに向かいましたが、突然、鬼でも見たかのように「うわぁっ!」と叫びました。

 「また......何があったの?」

 「今、今、家の玄関の前に人が突っ立ってて、中を伺おうとしている気配、すっごく感じるんだよ!ねえ、分からないの?分からないの?」

 ユタカは私に「分かって欲しい、こんな不気味な気配から早く遠ざかりたい」と必死になっていました。私は息子のそんな訴えにただならぬものを感じ、そばに来ていた母と3人で、急いで寝室に戻りました。

 すると、再びユタカは「我が家に忍び込んだ殺人鬼」からこちらの気配を悟られまいとするかのように、怯えた調子で続けました。

 「あっ......古井が......!」

 「やっぱり、また、<古井>なの?」

 「古井がお母さんの勉強部屋へと、外から入ろうとしている!ーあっ!もう、入っちゃった!今、書斎で足音がしたよ!」

 その時、私も、洗面所から書斎のドア付近で人が動き、「カタッ......コトッ......」と何か物を動かす気配を感じ、音をもはっきりと聞きました。その後、ドアを開けるかのような音が聞こえてきました。

 「ほら......!お母さんの書斎のドアを、カチャッ......キーッて開ける音がした。あれ、古井だよ」

 「あっ!ー今度はリビングに来て、椅子に座ってる......!椅子の音、聞こえたでしょ」
 
 私たちは、3人とも、寝室で息を潜め、「正体不明のモノ」が家中をうろつく気配や音を聞いていました。特にそうした気配や音に敏感なのは、ユタカの次に私だったようです。母は、何も聞こえない様子でした。

 しかし、その「悪鬼」はいよいよ私たちに接近したようでした。

 「もう、この部屋に入って来た......!」

 ユタカの言葉と同時に、私は裸足の足の裏を「誰か」の指でグッと押されました。

 「嫌だ、何?足の裏を押されたよっ!」

 私はゾクッとし、思わず足を曲げ、体を息子の本棚の方へと慌てて移動させました。ユタカも、「ワッ!腕が......!触んな、触んな、あっち行けっ!」と布団の上に座ったまま、後ずさりしました。

 ユタカは、右腕の二の腕を、「誰かの冷たい手」で触られたのです。

 こんなにハッキリと「目に見えないモノの冷たい手」で体を触られることは、私たちにとって、5月中旬の怪奇現象が始まって以来、初めてのことでした。

 母は、まだこの時点では「触られる」被害を被っていませんでしたが、7月から8月いっぱい、母も「一晩中、体のあちらこちらを触られたり、叩かれたりする」恐怖を味わうようになったのです。

 一旦、こんな生々しい経験は鎮まりましたが、今度は壁が「ドン、ドン、ドン......」と鈍く叩かれ出したため、最後の切り札とばかりに、<般若心経>のテープを大音量にして流し続けました。そうして、この夜の「試練」は午前3時頃、やっと収まったのです。

 私は、本能的に拒みつつも、「心霊現象」について、更に何かを知りたいと思いました。

 「冷たい手で体を触られる」といった、凍り付くような経験をしたからには、やはり「霊なるもの」が周囲に漂い、夜間に音もなく降り積もる雪のように、我が家を「あの世」の空気でしんしんと包み込み、ごく平凡な日常から、私たちを震撼とさせる「異空間」へと、遠く、遠く隔たった場所へと引きずり込もうとしているのだ―

 そうした現実を直視せざるを得なくなってきている、そんな切羽詰まった心境へと追い込まれていたのです。

 私の「手引き」となるのは、やはり佐藤愛子さんの<私の遺言>でした。この本で、私は初めて「この世」と「あの世」の中間に、「幽現界」なるものが存在することを学びました。

 この異世界は、読んで字の如く、「幽体」となった、肉体から離れた霊魂が、生きた人間の住む「現実世界」をさ迷う空間です。

 私は、死後の世界というものをじっくりと考えたこともなかったために、人間は皆が「この世に未練が残り、死後であっても真っ直ぐに天上界へと行き、成仏するわけではない」のだ、と知りました。

 どうした理由で、そうした「幽現界」にさ迷う霊魂が、我が家に入り込んでくるのかが分かりませんでした。そのため、佐藤さんの本は、その時はそれ以上、熟読することはありませんでした。

 そうした世界がある、と知識上知っても、自分たちが経験した生々しさにその異世界を結びつけることに、底知れぬ怖さを感じたためでした。

 親しい友人には、携帯のメールで詳しく、「こんなことがあった、あんなことが起きた」と知らせていました。友人は、「夜中の2時や3時に怖い目に遭うんなら、早めに寝てしまえばいいんじゃない?」と返事してくれました。

 それも道理に叶っていますが、いくら早く寝たところで、壁の音や「触られる」ゾッとするような感覚、寝室を所狭しと飛び交うタオルケットやティッシュボックスの騒動で、どうしても起きてしまうのです。

 6月24日には、午前0時45分から46分の、わずか1分間に、洗面所に置いていた父の歯ブラシが5m離れたリビングの床に「カツーン!」と飛ばされ、食卓の上のティッシュボックスが、1m先の床へと投げつけられました。

 これらも、ユタカが「あっ!古井の気配がする!」と言った途端に起きた事柄でした。
しかし、私と母とが、<般若心経>を6回ほど唱えると、現象は鎮まり、ユタカも「アイツ、出ていく気配がした」とホッとしたようでした。

 このような状況下では、もはやお経だけが頼りであり、私たちは「お経が身を守ってくれる」と信じて疑いませんでした。

 翌日は、何が起きたか、記録に記されておらず、忘れてしまいましたが、6月26日木曜日、未だ予期せぬ怪異が起きました。

 その日の夕食後、私は、寝室にしている子供部屋隣の、元和室だった襖が何かで「汚れている」ことに気がつきました。

その襖は、その年、2008年の正月過ぎに、新しく張り替えたものでした。特に汚すような原因も思い当たらないのに、「何か」でひどく、下から40cmほどの襖の半分が点々と汚れているのです。

 近眼の私は、眼鏡をかけ、「何の汚れだろう」と目を凝らしました。

 よく見ると、それらは赤茶色だったり、赤黒く変色していました。私は直感的に、「これは血だ」と分かりました。

 まるで、襖に向かって、鼻血でも吹き付けたように、無数の血痕がぶちまけられていたのです。どうも、1、2日前に襖に飛び散り、それで少し茶色に変色しているようでした。

 中には、血が飛び散った後、つーっと血液がしたたったような後まで残っているものもありました。私は慌てて、母に教えました。

 「まあ、本当に......これは血だね。まあ、何だって、血がここに飛び散るの?あの子が鼻血でも出たかしら?」

 「ううん、いくら鼻血でも、どうして襖に飛び散ったりする?これは、血が何かで飛び散ったように、襖につけられたのよ」

ユタカが、私たちの騒ぎで、寝室でDS をするのを止め、「どうしたの?」と様子を見に来ました。ユタカに、襖の血を見せ、「ねえ、変じゃない?どうして、ここに血がついているんだろ?」と私は言いました。

 すると、ユタカは驚くべき話をしたのです。

 「あっ思い出した。今朝の夢。人が人を、グシャッと刺し殺す夢だったー」

 「えっ?そんな怖い夢、見たの?」
 「うん。悪夢、だよね......」

 私は鳥肌が立ちました。なぜ、息子が見た夢が、現実となって、この襖に「血が飛び散る」ことが起きたのか―

訳は分からないながらも、この襖の禍々しい血痕は、ユタカの悪夢が現実化したものなのだーそう思わざるを得ませんでした。(To be continued......)