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7月11日金曜日の晩になりました。ユタカが強い眠気に襲われ、机のスタンドの明かりを消した途端、再び壁を叩く音が始まりました。
時刻は午前3:50 でした。
その音は、かなり強く、板でできた壁の空洞に、真夜中激しく響きわたりました。
息子が、うるさくてたまらないため、「止めろ!」と念ずると、音はぴたりと停止しました。彼は、「まだ妙な気配がして、眠れない」とこぼしました。
そのうち、鈴の音がしてきました。
その鈴は、私が6月の旅行で買い求めたフクロウの携帯用ストラップの音だとすぐわかりました。
もうさんざん、こうしたIT機器には嫌気がさしており、何をしても無駄だ、と判断したというのに、アラーム設定やメール、時刻の確認に便利なため、つい枕元の下に押し込んでおくのが毎晩の習慣になっていました。
私のその携帯は、母の枕の下に押し込んでありましたが、「なぜ鈴の音が......?」と思っていると、妙なことに、母の枕下ではなく、息子の枕の下あたりから、折り畳んだ状態で、ひとりでにポン!と放り出されたのでした。
この携帯は、寝る前は折り畳んではいなかったのです。
更に、午前4時、私と母とがトイレに行っている間でした。
リビングに戻ると、ピアノのそばにあった買い物用の黒いリュックと、ピアノの椅子の上のクッションも、両者共に7m は離れたリビング扉前にまで吹っ飛んできました。
夜中でも真昼でも、とにかく物が意志を持つもののように私たちをめがけて飛ぶ様子に直面すると、さすがに冷静ではいられません。
「わっ!飛んできた!すごい勢い、きゃっ!」
まさに、私たちがトイレから戻り、リビングの扉を開けるのを待ち、狙いを定めていたかのようでした。
この、携帯が飛び出したりリュックが飛ぶなどの現象の最中、午前3:50~4:00 の間でも、私と息子と母、3人とも、肩や腕、腰など体中のあちらこちらを目に見えない「手」で、触られたり、すーっと撫でられたりしたのでした。
それは何とも表現し難い、異様な感覚でした。
そばにいる家族から肩を叩かれるのなら、ごく自然なことであり、何でもないーそれが「普通」であるのは言うまでもないことです。
しかし、家族3人とも互いに触れあってはいない。そうした状況下において、目には見えない「相手」の「手」だけがところかまわず触れてくる。
全くなす術がないのです。恐怖の底に付き落とされるがまま、全身を緊張感で強ばらせ、恐怖の「苦痛」に耐えるしかありませんでした。
具体的にこの「苦痛」を表現するとすれば、「生々しい」としか言いようがありませんでした。「壁を叩く」「物を投げる」以上に、「正体不明の存在」からの「じかの接触」であったからです。そして、なぜ「彼ら」がそんなに私達の体に、皮膚そのものに「触れる」のかが、皆目分からなかったからなのです。
また更に、午前4:20、ユタカの机の上にあったヘッドホンが、4m離れた私の枕元の襖に、凄まじい勢いで投げつけられました。
我が家の襖は、特殊な造りで、以前も記したように、板でできているため、薬のチューブやティッシュボックスが当たっただけでも大きな音をたてるのです。
ヘッドホンが襖に当たった時は、あまりに凄まじい音だったため、携帯などの、もっと重い物が飛んできたのか、と思ったほどでした。
しかし、これ以上にまさに「恐怖の戦慄」とも言うべきは、午前5:00から30分間に渡って起きた、「透明な手で母が40回以上に渡って、体中をトントントン......、と叩かれたこと」でした。
母は、肩、腕、腰、背中を、「何者かの手」でひっきりなしに叩かれていました。
「助けて......怖いよ......ああ、肩、腕をしょっちゅう叩くんだよ......」
「タオルケットにくるまっても駄目なの?」
「そんなの、関係ないよ......あっ!今度は腰を撫でられた......! まあ、どうしたら......どうしたらいいの......ねえ
え......あっ!今度は背中まで......ああ、嫌だ、嫌だよ......」
母は起き上がり、学習机に寄りかかり、完全に泣き声になっていました。
声をぶるぶる震わせ、「みえない手が触れる」こと自体が、鞭で打ち据えられるかのように、その都度「ああ!ああっ!」と悲鳴を上げ、顔を苦痛で歪めていました。
私の恐怖心は、母の極限にまで怯える様子によって、一層増幅されていきました。
相手は肉体、実体も持たないのに、母の手を叩いたり、撫でることが可能なのです。
私たち3人とも「触られる」、しかもある時には母のみが集中的に「攻撃される」-この現実に、私の心には「まさに怪異だ」との印象が深く刻み込まれました。
霊というものが、肉体を失っても、生前は「魂」として人の心を司っていたのなら、死後もその魂は生き続ける、ということの、これは明らかな証明なのでしょうか。
それら「霊」が住む異次元とはどんなところなのか、様々な研究がなされています。
しかし、なぜ人間は死後、異次元の住人となるのかーそんなことは、このように現実世界で異様な体験をしても、はっきりと解明されることではないのではないでしょうか。
ただ、私はこうした恐怖体験をしても、その場の恐怖を我慢するのが精一杯で、摩訶不思議な「異次元世界」を深く知ろうとする気持ちがすっかり萎えていました。
息子は、母が叩かれているのは午前5時頃だったため、もう寝ていましたが、母の声で目が覚め、「夢を見た」と言いました。
「ねえ、変な夢見たよ。ばあちゃんのそばにさ、防空ずきん被った、白骨化した5、6歳の女の子がしゃがみ込んでいるんだ。片手の先だけ、肉が残ってる姿で。白黒で、半透明の姿をしてた。その子の姿が2回も現れたんだ」
その話を聞いて、確か私と息子とで、「成仏して、お願いだから消えて」と念じたのを覚えています。
するとユタカがホッとした表情で、「消えちゃった。空気が軽くなった。ばあちゃん、もう叩かれないんじゃない、どう?」と尋ねました。
母は、先ほどまで途切れることなく「叩かれる、触られる」感覚が失せているのに気づき、驚いた顔になりました。
「まあ、ホント。もう、どうもないよ」
「あのね、僕、小学校の時聞いたけど、このあたりも、昔は空襲を受けて、犠牲者が出たらしいって」
「じゃ、ユタカの夢に出てきた女の子は、その空襲の犠牲者なのかな。その子が、ばあちゃんの肩とか叩いていたのかなあ」
「さあ......とにかく、この辺、昔、山ばかりだったんでしょ。疎開していたのに、爆撃機がここまで来たんだね」
そんな会話を交わしていると、私たちの体を触った「手」は、そうした戦争の死者、浮かばれない子供の「手」だったのかもしれない、と考えてしまうのです。
その日の午後、4時から5時半頃まで、私はユタカとチェスをして遊びました。
それは、コンビニに売っていた、旅行用のポータブルチェスでした。
その頃は、いつ、何が起きてもおかしくない異常な日常の直中に身を置いていました。だからこそ、何らかの気晴らしが私にも息子にも必要だったのです。
私はたいてい先が読めず、駒をどう動かせば良いのか行き詰まり、勝つのはいつも息子でした。こんな遊びの時の彼はウキウキと楽しそうでした。
「もう1回戦」と2回目のチェスの最中、5時40分頃、急にユタカが耳をそばだて、チェスを止め、私を不思議そうに見つめました。
「......何だろ、この音......?」
「えっ?音?」
「ほら、なんか人が喋ってる。ラジオの音声みたい。ラジオ、つけてるの?」
私の家にCDラジカセはありましたが、山の上のマンションであるため、電波状態が悪く、NHK-FM が聴きたくても入らないので、ついぞラジオはつけたことがないのです。
「変ねえ。ラジオなんて、つけてないのに......?」
息子と私は、音声のする方を探し、いったいどこから音がするのか、何から音声が出ているのか調べました。
そうするうち、音源は私の携帯だと分かりました。
寝室の私の枕の下に入れていた携帯は、いつも閉じていました。
それが、誰も触れていないのに、液晶画面とキー操作部分とに大きく開かれており、テレビがついた状態になっていたのです。
ラジオと思った音声は、携帯テレビの話し声であり、相当長時間、テレビのままだったらしく、携帯はかなり熱くなっていました。
私とユタカがチェスに夢中になっている間、また「誰か」が勝手に携帯を操作したかのようで、不気味でした。
ユタカの夢に出てきた、60年以上も昔、太平洋戦争中の「防空ずきんの少女」や、携帯、パソコンなどを自由に扱えるこの現代、「21世紀に生きていた者」などが、時間と空間を飛び交い、私たちの周囲に常にいるような、何とも鬼気迫る気配が、どんどん濃密になっていく感さえ覚えました。
これらは、まさに、5月末頃予感がした「現象のエスカレート」にほかなりませんでした。
翌日12日土曜日の午前4時からやはり30分間、母が何十回にもわたり、昨夜と同じように、体のあちらこちらを「トントン、トントントン!」と叩かれたり、すうっと撫でられたりしました。
震え上がる母には、もうお経を唱えることは不可能でした。あまりの恐怖に汗だくになり、涙さえ流している母が気の毒でもあり、また、身内がこんな目に遭うことがその頃は最大の恐怖でもありました。
私は、懸命に『般若心経』を唱えましたが、何も効果はありませんでした。
そうするうち、いつかの晩のように、ユタカが私の背後で「もう、般若心経なんて効果ない。無駄だ」といきなり言いました。
その言い方は、いつもの彼の言い方とはどこか異なり、棒読みで、感情が全くありませんでした。
私が振り向き、「どうしてそんなこと、言うの?」と尋ねると、やはり彼自身、びっくりしたように、「えっ?僕、何も言ってないよ?」とたじろぎながら答えるのです。
2~3日前も、息子は夜中に突然、「般若心経は、はがせばいい」とやはり抑揚のない調子で言いました。それも、私と母とがお経を唱えている時に必ず言い出すのです。
私が、「なぜ、『お経をはがせばいい』なんて言うの?」と不審に思って訊くと、やはりいつもと同様に、驚いて、我に返ったように答えるのです。
「ええ?僕、そんなこと言った?何か無意識に言った気もするけどー自分でも、何言ってるか、意識してなかったよ。僕が、『お経はがせ』なんて言うわけ、ないじゃない?お経は、はがしたら絶対にダメだよ」
この「お経は無駄だ」といった内容は、実際、8月に入って、数多く訪れた「霊」の中で、最も私たちが「忌まわしい」と震え上がった「女性の霊」の口から語られた内容でした。
そのことを考えると、7月の中旬頃から、その霊は息子に接近し、「憑依」し、無意識の息子に自分のメッセージを語らせていたのではないか、と思わざるを得ないのです。
しかし、「憑依」との言葉自体に、私は絶対的な確信を抱いていたわけでもありませんでした。ただ「憑依」との言葉が思い浮かび、息子の様子にはその表現が該当するのではないかと感じていただけでした。
「霊」や「憑依」といった表現は、通常経験するはずのないことを経験していたために、自然と浮かぶものなのかもしれません。それら奇異な言葉のイメージは、2008年5月の「現象の始まり」以前に、テレビや雑誌などの「心霊特集」などを通じ、それを見た多くの人々と同様に、根拠もなく焼きつけられた一種の概念に過ぎないのでしょう。
それでも、その「一種の概念」が、真実味を持って私の日常生活を浸食し始めるほど、2008年の夏の経験は想像を絶するものだったのです。「霊的存在」など「あるはずない」と思っていた私たちが、その存在を身近に感ずるほどにー
「家族以外の者に肩や腕を叩かれる」といった「生々しさ」は、このような「霊的存在」が、自らその実在を私たちに示すための、更なるステップだったのかもしれません。
それでも、私たちは、7月のこの時点においても、この怪体験を「霊の仕業」だと確信していたわけではありませんでした。「霊」という言葉も、その場その場で、自身の心を納得させるために使っていただけのように思います。しかし、私たちの意に反し、この異様な「生々しさ」は深刻さを増していくばかりでした。(To be continued...)