2011年10月12日水曜日

第7章「炙り出された正体」4―お経を真似る少女の声

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 蝉の鳴く暑い7月中旬になっても、毎週1回は、中学の相談室へと足を運ぶのが、もうお決まりの行事になっていました。私は家から徒歩20分ほどの道を、日傘を差しながら歩いて行きました。

 私は、この道を歩くのが嫌でした。新しい制服や、体操服、体育館シューズの寸法を測るために、入学前の3月の末、息子と一緒に歩いた道だったからです。その時は、まさかひどいいじめに遭うとも知らず、中学での新生活に期待を抱きつつ、楽しい思いで歩んだ道でした。

 また、この道は息子が12歳の4月から13歳の3月初旬まで、苦しい、辛い想いをこらえながら、独りぼっちで登下校した道でした。彼には、中学には、何一つ良い思い出がないのです。

 赤い煉瓦の家を左に曲がり、右手に象の形を模した滑り台のある公園、左手に閑静な住宅街が続く道になると、もう正面遠方には、体育館の青い屋根が見えてきます。

 校門の前に立つと、1年前の4月、入学式の後、ぶかぶかの制服を着た新1年生たちのクラス記念写真を撮影したことが思い出されます。

 その時、息子は寂しげな表情を浮かべていました。進学し、新しい希望に胸膨らまし、笑顔で映っている同級生たちの中、ただ独り、憂鬱な顔で―

 その校門を見ただけで、私は暗鬱な気持ちになり、涙が滲んできました。そそくさと中庭に入り、客用玄関からスリッパに履き替え、校内へと足を踏み入れます。

 そんな時でも、制服姿の中学生たちがドヤドヤと廊下を歩いて行ったり、何かの検査のためにクラス単位で相談室近くの廊下に並んでいたりすると、「なぜうちの子は、制服を着て、こうして学校生活を送れなくなったのだろう」と悲しくなるのです。

 やっと相談室の前に立ち、ドアをノックすると、私は、一つの使命を半分やりおおせた気持ちになるのでした。

 しかし、これから先生に会い、7日分の出来事を話さなければならない、と思うと、それがまた重荷に感じられました。

 「どうぞ、お座り下さい」

 相談室は、6畳ほどのこじんまりした広さで、入ってすぐ、人目を遮るためか、半透明のついたてがありました。応接セットの正面に、先生が事務を執るデスクと、左側に移動式の白いボードが置いてあり、右側の窓からは午後の日差しが射し込んでいました。

 時折、廊下での生徒たちの喧噪や、管弦楽の練習などのざわめきが聞こえる中、私は促されるまま、ベージュのソファーに腰を沈めました。その感覚は心地よく、固いアスファルトの道をトボトボと歩いてきた疲れが、やっと帰宅した家の布団に体を横たえ、癒される感じとよく似ていました。

 「最近は、いかがでしょうか」

 そう問われて、私は、いろいろと書き込んだメモ帳を取り出しつつ、時間を気にしました。先生は、応接台の上の時計をこちらに向けて、「今日は、いつものように1時間お時間とりましょう」と言うのが常だったからです。

 1時間ほどで、この1週間の間に起きた様々なことを話せるだろうか―そう気にかけ、なるべく要点だけを話していくのですが、気がつくと、2時から3時の約束が、3時半を軽く過ぎることは珍しくありませんでした。それでも、先生は、根気強く、こちらの話に興味を持ち、真剣に聞いて下さったのです。

 「そんなに、おばあちゃんばかり、叩かれるんですか」

 「ええ、最初は私と息子も叩かれる、ということがほんの少しありましたけれど、本当に一時だけです。このところは、母ばかり、肩や腕をね、左右構わず、トントンと叩かれるんです。それが、たいてい午前2時、3時過ぎから長い時で1時間半は続きますから、毎晩、睡眠不足でね。今日も、お昼前にやっと起きたんですよ」

 私は、ノートの最初のページに、私自身が叩かれた事実を記録していたことを思い出し、先生に話しました。

 「そう言えば、こういうことは、7月に入って、と思っていましたけど、違うんですね。私が、まず6月5日の木曜日、食後の夜8時50分頃、『右肩を叩かれた』って書いていました。私が、最初だったんです」

 「ああ、確か、そんなこと、おっしゃっていましたね」
 
 私は、「6月5日、私の右肩を、強く注意を促すように、トントントン!と、最後はぐっと押すように叩かれた」との記述を先生に見せました。

 「あまり急だったので、息子が叩いたのかと思って、『え、何?』と言ったほどなんです。でも、息子は、私から20cm は離れた前方の椅子で、膝を抱えて、テレビを見ていたんです。その様子は、母も見ていました」

 「じゃあ、本当に、お母さんが、背後から、誰もいないのに、肩を叩かれたんですよね」

 島田先生は、そう言いながら、改めてぞっとしたように、眉を寄せました。

 「僕はね、以前もお話しましたけれど、こういう怖い話は、まるっきり苦手なんです。お母さんが最初の頃お話された、山岸涼子さんの本もね、あれ、読んでみたんですけれどね」

 「あっ、あの本、買われたんですか?」

 「いや、本屋でこれか、と思って少し立ち読みしただけです。でも、あれ、全部読めませんね。ああいう恐怖感っていうのは、ダメですね。こう、頭をきゅーっと締めつけられて、全身にぞくぞくーっと広がっていくような感じがして―あの単行本すべての話が、そうですねえ。でもね、おかしな話ですけどね、僕、『オーラの泉』はよく観てるんですよ」

 「えっ...『オーラの泉』......?」

 「そういう番組があるんです。美輪明宏さんと、江原啓之さんとがレギュラー出演で、人の魂とか、死後の世界とか、輪廻とか、人間心理とか、そういうことを語り合うんですよ。今度、ご覧になったらいかがですか」

 私は、作家の佐藤愛子さんが、芸能人の美輪明宏さんと、スピリチュアル・カウンセラーの江原さんの助言に助けられながら、深刻な心霊問題が解決へと向かったことを思い出しました。

 また、私は、高校時代の友人に、家で起こる「怪事件」を、その都度、携帯のメールで知らせていました。その友人は、返信で、「私、『オーラの泉』観てるから、そういう話、結構信じる方よ。もう、それだけ凄い体験してたら、江原さんのお弟子さんになれちゃうんじゃない?」と送信してきたことがありました。

 その返信を見たときでも、『江原さん』とはどんな人なのか、全く知りませんでした。私が『江原啓之さん』の名を知ったのは、その後、佐藤愛子さんの本を買ってからであり、まして、『オーラの泉』というのも一体何のことなのか、分かりませんでした。

 「その『オーラの泉』で、美輪明宏さんが、こう言われたのを覚えていますよ。『亡くなった人の魂は、決して怖いものではありません。彼らは、この世に思い遺すことがあって、さ迷っているのです。だから、もし、彼らに出会うことがあれば、こう念じたら良いのです―どうか、心安らかに成仏して下さい。私たちは、決して悪いことはしていません。どうか、私たちの生活をお守り下さい―』ってね」

 「美輪明宏さんって、そういうことに通じた方だったんですか......」

 「ええ、だから、お母さんも、夜、『怖いなあ』と感じる目に遭われたら、そんな風に念じたらどうでしょうか」

 普通なら、私たちの「怪奇談」など、「あり得ない」と一笑に付されてしまうでしょう。しかし、島田先生は、「怖いですね」と言いながらも、問題と真正面から向き合い、解決案を提案して下さる方でした。

 時計を見ると、もう約束の時間はとっくに過ぎ、3時半になろうとしていました。先生は、少し話題を変えて、息子の話にもっていきました。

 「お母さん、ユタカ君がこのまま、中学に通わないままでも、それで良いとお考えになることはできますか」

 先生の唐突な質問に、私は問いに窮してしまいました。息子には、できたら中学に復学してもらいたい、と常日頃思い、また息子も、「復学したい」と望んでいる、と信じていたからです。

 「うーん......それは、また学校に行けるようになれれば一番いいんですけれど......現実問題として、結局......無理ですよね。だって、戻ったところで、また嫌がらせをした生徒と顔をつきあわせるだけですから―」

 「でしょう?だから、中学はね、在籍したままで、無理に通学しなくってもいいんですよ。最近は、『フリースクール』というのが増えてましてね、お聞きになったこともあるかもしれませんけれど」

 「フリースクールって、でも、一般の学校ではないんでしょう?」

 「ええ、時間的にも規制のない、言葉通り、自由な学校です。時間割なんてないしね。一応、朝の9時ぐらいから夕方5時くらいまで開いてますけれど、好きな時間に行っていいんです。最近は、中学に在籍したまま、そうしたスクールに行く子が増えています。不登校などで行けなくなった子供たちがね。そこでの目的は、学習も、個人指導が受けられますが、何よりも『同年輩の子供たちと触れ合う』こと、そして『一緒に戸外で活動すること』なんです」

 ユタカは、中学に入ってから、毎日登校していたものの、夏休みを過ぎると、美術部も止め、よく吐き気で保健室に行ったり、早退して、保健室の先生の車で送ってもらったりするようになりました。13歳の3月中旬からは、もう4ヶ月もの間、同年輩の子供と誰一人として接していないのです。

 通学している間でも、親しい友人に恵まれず、ただ苦しい日々を送っていただけで、それを考えれば、12歳の春からほとんど独りだったようなものでした。

 「子供にはね、外の新鮮な空気と、体を動かすこと、そして同じ年頃の子供たちと遊ぶことがとても大事なんです。不登校になった子供たちは、そういう当たり前のことが不可能になっているんですが、フリースクールに行けるようになると、だいぶ違ってきますよ。同じ中学で、1年上の榊君も、中1の夏から来てますよ、もう2年間かな」

 「榊君って、榊真人君ですか?同じマンションで、よく小学1年からうちに遊びに来ていましたけれど」

 「ええ。榊君は、大勢の子と騒ぐのは苦手で、でも、個性的ないい子ですよね。中1の夏休み前から学校に行けなくなって、私が家庭訪問した時も、部屋に引きこもって会ってくれなくってね。それから、夏休みの間、ずっと母方のおじいちゃんのお寺で過ごしていたそうです。中1の秋の末頃、私がフリースクールに誘ってみると、以前と違って前向きになってましてね、今じゃすっかり元気ですよ」

 「今でも榊君は、ずっとそのフリースクールですか?」

 「ええ。今は、そのスクール主催のキャンプに参加しています。だいぶ、昼夜逆転も治ってね、高校進学の準備もしてるんですよ」

 私は、そのスクールの資料を見てみたいと申し出ると、先生は、にっこりして、机の上にあったフリースクールの案内書を手渡してくれました。そこには、『やまばと』とのスクール名が書かれてありました。

 私は、自分がそうであったように、子供は皆、普通に中学、高校と進学していくものだ、と考えていました。このフリースクールの存在は、そんな私の「常識」を覆してくれました。どんな形であっても、子供の道は開けてゆく事を知り、形式的な「常識」が、息子の将来を閉ざしていたことを理解することができたのです。

 フリースクールの存在は、暗闇に差し込んだ、まさに一条の光でした。

 「不登校の子でも、そのうち自然に家にじっとしていられなくなる。家にばかりいるのは子供本来の姿ではないからです。お子さんが外に出たいと自ら言うようになれば、不登校は卒業の時期です。そういう日が必ず来ますから」

 私は、その先生の言葉に励まされました。「ユタカがそのフリースクールに行けて、またマサト君と遊べればどんなにいいだろう。そうして、中学に通わなくても、高校にも進学できる道がある」―そう思い、その日は希望を持って帰路につくことができました。

 昼間は、私や息子の心情を思いやり、家での不思議な出来事にも耳を傾けて下さる方と話をすることで、3ヶ月前から始まり、今も続く現象への不安や恐怖も落ち着き、「私はこうして普通の世界で暮らしている」実感を得ることができ、救われた心地にひと時浸ることができました。

それでも、帰宅し、夜になると、怪奇の闇は音もなく訪れ、私たちは再びその底へと呑み込まれ、毎夜毎夜、心霊現象に怯えなければなりませんでした。

 7月13日の日曜日、午前3時から4時までの1時間、やはり母が叩かれる、ということが起きました。私やユタカが叩かれることは以前はたまにありましたが、その日も、もっぱら母だけが「攻撃」を受けるのです。

 母は、「何か」に、トントン!トントン!と、手足を左右、関係なく、ひっきりなしに叩かれ続けました。

 母は、たまらなくなり、昨夜と同様に起きあがり、『般若心経』の最後の部分を必死に唱え続けました。

 すると、ユタカが「消えた。気配はもうない。いなくなったよ」と言い、「ばあちゃん、もう唱えなくっていいんだよ」と、泣きながら震える母に声をかけました。

 「......いいの?......ホントにいいの?また、叩くんじゃないの......?」

 「本当にいいんだよ。大丈夫だよ、ね、ほらね」

 もともと心臓の弱い母は、青ざめて汗をかいていましたが、何も体に感じなくなったのをようやく理解したらしく、ほーっと長い息をつきました。

 私自身も、恐怖と戦いながら、懸命に『般若心経』を唱えていましたが、先日、島田先生から聞いた『オーラの泉』の話を思い出しつつ、「どうかどうか、消えて下さい。お願いだから成仏して下さい。私たちの生活を守って下さい」と「叩く相手」に一心に念じていました。

 先生のお話を聞くまでは、不可思議で不気味な現象に対して「敵が襲う」といった印象しか抱くことができませんでした。

 しかし、7月の中旬頃からは、その現象を起こす「相手の心」を、少しずつ意識するようになったのです。確かに何か訴えたいのには違いない、だから私たちに物を投げたり、体に触れたり、壁を叩いたりするのだ―

 そう「理解する」努力を、少なからず意識し始めようとしていたのです。それでも、「姿の見えない相手」の起こす行動は、決して楽しいものではありません。

 「相手が姿が見えない」時点から、彼らの起こす「現象」は、私たちには恐怖なのです。そして、「なぜ、よりによって私たちがこんな怖い体験をするようになったのか」という、これまでにも何回も繰り返してきた、当て所のない問いで心が支配されるだけでした。

 翌日、7月14日の月曜日のAM3:40~50頃のことでした。

 その晩も、母が、「まあ、気色悪いよ」と震え上がり、眠気を覚まされ、学習机に寄りかかりました。

 私は、毎晩の現象に警戒する癖がつき、この時間まで眠れずにいました。

 「また、叩かれるの?」

 「腕を叩くんだよ、トントンって......! あっ!今度は手を触った!......ああ、嫌だ......あらっ!今度は肩よ、肩を触るの......ああ、気色悪い、どうしよう......」

 母は、すがるように、枕元のお経のコピーを手に取り、『般若心経』の最後の部分、「ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそうぎゃーてい、ほうじ、そわか、般若心経」との文言を数回唱え始めました。

 その唱えている最中も、「あっ!また触られた......!」と悲鳴に近い声を上げ、お経をその都度中断し、タオルケットで全身を覆いました。

 タオルケットで「触れられないように」しても、「何者か」は、母の肩や腰などを、その上からしつこいほどに、トントントン!と叩くのです。母は、目をつぶり、苦しそうにしかめ面をし、歯を食いしばるように無言で、全身を強ばらせていました。

 そんな母の姿を見ながら、私は何か方法がないか、と懸命に考えました。そんな時、思い出したのは、佐藤愛子さんの本の内容でした。

 「ねえ、佐藤愛子さんが、確か、『南無妙法蓮華経』だけでも唱えたらいいと書いてあったよ。あの文言は、魔物を退治するらしいからって。ねえ、そうしたら......?」

 母は、それを聞いて、すぐさまその文言を唱え始めました。確か、5~6回は唱えたかと覚えています。

 すると、ユタカが、「ねえ、気配消えたみたい。もう、何もいないんじゃないかな」と言いました。

 息子は、いったん眠りかけていたのですが、「『いつもの気配』をばあちゃんのそばに感じて、眠れなくなって、ずっと起きていたんだ」と私に言いました。

 「本当に、『南無妙』が効き目あったのかしらね」

 「うん、さっきまでいたのは、幽霊じゃなくって、魔物だったんだね。それで退散したんだから」

 それから約40分後の午前4:30 頃、母が再び「触られる」ことが始まりました。

 私は、早速、「南無妙法蓮華経」を3回ほど唱えました。先ほど、この文言で、母を叩く「誰か」は、その手を引っ込めたからでした。
 
 「大丈夫、このお経は効くんだ」

 そんな妙な自信にも似た気持ち、「誰か」を打ち負かすような勝利感が私にはありました。お経の意味も解しないまま、ただ魔法の呪文を唱えている陶酔感が、恐怖の中に混じり合っていました。

 すると、私のお経に続くように、息子のもたれている壁の方から、苦しげな少女の声が聞こえてきました。

 「ナムミョウ......ゲキョウ......」

 それはか細く、息絶え絶えな、まだ4、5歳かと思われる幼子の声でした。

 親にお経を教わって、それを、べそをかきながら懸命に真似しようとしているような口調でしたが、特徴的なのは、今にもかき消えそうな、死にかかっているかのような苦痛にあえぐ声でした。

 その声は、苦しげながらも、静まり返った明け方の寝室に、はっきりとした音声で響いてきたのです。

 私はそれまでに、「不透明な相手」の長い台詞を聞いたことがありませんでした。5月の末頃、ベランダから「ママ...ママ...」という、やはり苦しそうに訴える少女の声が聞こえたことはありました。

 また、6月の旅行の際、最初に泊まった部屋で、私と息子しかいないのに、いきなり「すみませーん、お部屋のお掃除に来ましたー!」との若い女性の元気な声も聞きました。

 しかし、これら二つの経験は、私たちの意志とは全く無関係に起こったことでした。

 今回のように、お経の文言をそっくり真似る「声」を聞いたのは初めてだったのです。

 私たちは、家族が「見えない手で触られる」という何とも言い難い恐怖体験に対し、それを克服しようとする意志を、お経を唱えることで「未知の相手」に伝えようとしていたのです。

 「消えて下さい、私たちの生活にもう関わらないで下さい」と願いながらー

 そして、まるでその懇願に応答するように、今にも消え入るような震える声で、少女の声は私たち家族3人のいる部屋で、はっきりと聞こえてきたのです。声を潜めながら、私はユタカに尋ねました。
 
 「この声......壁に貼った神社のお守りの辺りから聞こえない......?」

 「ああ、うん、ほんとだ。僕、さっき、ウトウトした時、何か夢見たんだけど」

 「どんな夢?」

 「うーん、ばあちゃんがさ、『ぎゃーてい、ぎゃーてい』って言っている途中に、『お経は意味ないよ。それより、お腹空いた』って言う声がしてさ。ばーちゃんの枕元に、薄明かりの中で、紺のずきんともんぺの女の子が立っているんだよ」

 「ほんとに......じゃあ、この声は、その女の子の声かしらね」

 「きっと、そうだと思う」

 その後、私が「南無妙......」を3回唱えると、再び、同じ少女の声が、弱々しく、同じ文言を繰り返しました。

 「ナム......ミョウ......ホ...ゲ、ゲキョウ......」

 その声は、あたかも死の間際で、息絶え絶えに、ほとんど泣きながら訴えているような声でした。そういうことが30分ほどの間に数回ほどありました。

 母が触れられつつも、必死で「南無妙......」を唱えているうち、少女は「アッ......」と、小さな苦しげな声を立て、その後、ふっと気配は消えました。時計は、もう朝の午前5時になっていました。

 2008年7月14日の明け方、この少女の「お経を真似する声」を皮切りに、「さまよう霊との対話」という、現実に想像もつかない異様な体験がほとんど日を置かず、毎晩のように始まるようになったのです。(To be Continued......)