2011年11月10日木曜日

第7章「炙り出された正体」―5―空になったプリン

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それは何がきっかけで始まったのかは皆目見当がつきません。ただ私は、その少女の泣くようなお経の繰り返しを、「お経を唱えないで」との訴えではなかったのか、と解釈したのです。

 なぜそう感じたのかといえば、息子の夢に、とある少女(実際にお経を真似た少女と同一人物かは不明)が出現し、「お経は意味ないよ。それよりお腹空いた」と語った、と聞いたからに他なりません。

 彼女は、その舌足らずな口調とか細い声の響きから、もしかすると「お経は止めてちょうだい」と主張できるほどの年齢ではなかったのかもしれません。

 それでも、私の唱える「南無妙法連華経」を懸命に真似したことから、私はその声を聞いた経験を全く予期しなかった「霊との対話」ととらえたのでした。

 「死霊との対話」に関しては、「対話」との言葉よりも、霊媒者の方たちがよく行う「交信」といった表現が使われることは、いろいろと調べるうちに分かったことでした。

 欧米でもよく行われ、いわゆる「ミドラー(middler)」または最近では「チャネラー(channeler)」と呼ばれる霊媒者が、「霊界」と「この世=現実世界」との仲介者となります。彼らは、冥界から霊を身近に呼び寄せ、霊の語る内容をテレパシーで聞き取り、それを手元で自動的に筆記するという方法をとる、ということです。

 専門的にそうした超心理学や霊界研究を行っている人々、また、そうした超自然的な能力を得るに至ったか、もしくは生来備わっていた人々には、「霊との交流」を「交信」と表現した方がまさに適切に思われるのです。

 しかし私たちは、そうした知識も能力のかけらもなく、いきなりポルターガイストと呼ばれる怪異の渦中に放り込まれたのです。他の一般家庭と特に変わった点はありませんでした。

 「特別な点」を強いて挙げるとすれば、私が突然の薬害で入院し、それまで10数年勤務していた大学の講師職を辞めたこと、その翌年、息子が中学に進学し、いじめを受けるようになり、更にその翌年、2008年3月から不登校になった、ということかもしれません。

 また父親も、息子が生後2歳に満たないうちに交通事故で亡くなったという事実もあります。しかし、両親の一人がおらず、母親が突然入院したり、子供がいじめられて不登校になる、といったことは、日本中、世界中で起こりうることに過ぎません。

 70億もの人々が住む世界では、様々な事情を抱えながら暮らす家庭が多いことを考えれば、私たちの家庭もそういった意味で、ごく平凡な家庭であったのです。

 そうした「平凡さ」を暮らしていた日常に、いきなり「霊」としか考えられない存在たちが入り込み、私たちのすぐそばにいる、ごく普通の「人間」のように「しゃべった」ために、私は、その経験を「対話」と言い表した方が、自分のその時の印象によりかなっていると感じたのです。

 夜が明け、7月14日の昼間、午後2時40分頃、食卓の右端に何気なく置いていたサインペンが、パンをかじる息子の目の前で、凄い勢いで左斜めへと真っ直ぐ飛び、ピアノのペダルの下に挟まりました。

 こうしたことは、今までと同様、突然起きるのです。

 私はその時、洗面所からリビングに入ったばかりでしたが、その青い縞模様のペンが飛ぶ様子に直面し、肝を潰しました。

 いったい、恐怖の感覚というものは、ある時には壁の轟音に凍りつくかと思えば、それに次第に慣れてしまい、恐怖感にある種の耐性がつくと感ずるものですが、それは錯覚に過ぎないようです。

 しばらくそうした現象が鎮まっていると、その激しい「ラップ音」よりも遙かに規模の小さなことにもひどく驚いたり、心臓の鼓動が波打ち、冷や汗をかいたりするというわけで、「一定の基準」などないのです。

 壁の轟音や「物が飛び交う」ことよりも、「何者かの声が聞こえてくる」方が、ずっと恐怖感は小さいのではないか、と冷静に考えれば、そう思われてきます。

 しかし、種類や規模こそ違いはあれど、また「新手」の恐怖が、「何者かの声」にはつきまとうのです。

 昼間は、以前から起きていたような、「物が飛ぶこと」や「物の位置が勝手に変わること」はあっても、母が「触られる」ことや「声が壁から聞こえてくる」ことはありませんでした。

 しかし日が変わり、7月15日火曜日の夜中になると、またもや怪奇の闇が大きく口を開けることとなりました。

 私は、当時の記録ノートに「7月15日(火)」とあらかじめ日付を書き、その横に、"I wish nothing'll happen!" (何事も起こりませんように!)と英文を走り書きしていました。その願いも虚しく、時の流れを人が止めることができないのと同様に、奇怪なことが起きるのをせき止めることは、人智を越えた力でない限り、全く不可能なことでした。

 その晩、午前2時10分から30分の間、母がやはり体中を「触られる」ことが起きました。母は、必死になって、「南無妙~」の文言を心で唱え続けました。すると、昨夜と同じ少女が再び、その文言を息絶え絶えに繰り返す声が、何回か、息子と母との間で明瞭に聞こえてきました。

 私は、その少女が「唱えないで」と願っているのではないかと昨夜感じたものの、母の辛さをやはり救いたい、その思いが強くなり、10回ほど、「南無妙」を唱え続けました。

 すると、少女は、苦しそうに、「ウッ」「ヒッ...」と呻くと、苦しげに、「般若心経は...意味がないよ...」と細い声で語りかけてきました。

 その直後、また母が触られたり、息子の耳たぶまでが冷たい手で触れられました。ユタカは畏怖感が鈍り、「もうどうでもいい。眠たいよ」とぼやき出しました。

 しかし私は、今のこの異変を収めたい一心で、「私たちは何も悪いことをしていません。あなたも同じです。だから私たちの幸せを壊さないで、静かに成仏して下さい、お願いです」と何回も念じ、母も「南無妙」を唱えていました。

 この間、布団の下のティッシュボックスが妙にカサカサいうなあと思っていました。私はトイレに立ちましたが、寝室で「ガン!」と大きな音が聞こえました。戻ってみると、案の定、そのボックスは、入り口の襖に当たり、私の布団に落ちていました。

 息子は、もうウトウト眠っていたので、部屋の明かりを消しましたが、急に彼は「ワッ!」と跳ね起きました。

 「今、夢で、5、6歳の女の子の骸骨が白っぽく机の前に立ってたんだよ!それに『何かおいちいもの食べたい』なんてことも言ってた」

 私は何か今までにない強力な力が迫り来る不安で、その夢の話に重苦しい空気を感じたため、就寝前の安定剤を追加しようと台所に行きましたが、その時、息子の鉛筆が寝室からパソコン机の下にビュッと飛んで来ました。

 その現象は、昨夜からお経の文言を苦しげにはっきりと声に出す少女の苛立ちから起きたことと思いました。お腹が空いているのなら何か食事を出せば収まるのだろうと、私は冷蔵庫を開けて、ちょうど前日の夕方、コープで買ったプリンを取り出しました。

 私はそのフィルムで覆われたプリンを食卓の上に置き、「これをどうぞ食べて下さい。そして成仏して下さい」と深々と頭を下げ、手を合わせました。その時は、仏壇に「お供え」をする形式的な儀礼と同じ感覚でプリンを置いたに過ぎませんでした。

 恐怖が私を寝室へと追い立て、私は慌てて襖を閉めました。そしてそのまま、母と息子とで、テーブルの気配を伺っていました。

 私は、プリンはそのままで、いずれ少女の気配は消えるのではないかと高をくくっていたのです。

 森閑としたリビングに、やがて異様な音が聞こえてきました。それは、テーブルの椅子に誰かがおもむろに腰かける音でした。

 よく耳を澄ますと、ごく普通にプリンの上蓋フィルムを「ペリッ」とはがす音が聞こえてきました。

 敏感なユタカが、驚きの声を上げました。

 「ちょっと......!今、ペリッて音、したでしょ?ねえ、何かペチャペチャ食べているような音がする......あっ!今カランッて音がした。もう食べ終わったのかな......?」

 「まさか、亡くなった人がお供え物を食べるはずないでしょ......?そんなことあったら、それこそ驚異だよ」

 「でも、フィルムはがす音、聞こえたじゃんか」

 もしかして、「幽霊」が食べ終わったのかと、3人で恐る恐るテーブルに近寄ってみました。

するとそこには、目を疑うような光景が私たちを待ち受けていました。

 コープのプリンは、ものの見事に空っぽになっていたのです。

上蓋のフィルムは、容器ギリギリの部分まで剥がされ、中のプリンは「誰かが食べ終わった時のように」隅々まできれいに食べ尽くされていました。そして、空の容器はお行儀よく、元の位置からほとんど動かず、「ごちそうさま」といった感じで丁寧に置かれていたのです。

 亡くなった人の仏壇には、生前その人が好きだった食事をあくまでも「お供え」として、霊を慰めると同時に、遺族が気持ちを癒すために用意するのが一般化しています。私がプリンを出した時も、そうした意味合いが濃かったのです。日本中、「お供え」がいつの間にかペロリとたいらげられていたら、それこそ怪異でしょう。

 私たちは、息子の夢に現れた少女とは縁もゆかりもないものの、「お腹を空かしてさ迷っている戦争中の少女」のために「お供えでその子の気持ちが満足するのなら」とプリンを置いただけでした。

 幼い頃から、実家の仏壇に「お仏飯」をお供えし、線香を立て、ただ手を合わして来た私には、この「プリンの事件」は、今まで以上に奇々怪々な出来事でした。

 「まあー!ほんとにプリンを食べるなんてねえ!こんなことってある?まあ驚いた、気色悪いったら」

 「だいたい、もう肉体というものがないのに、一体どうやって食べることができるの?」

 私は母と口々に言い合い、開いた口がふさがりませんでした。

 私は、カウンセラーの島田先生に見せようと、その空になったプリンの容器を携帯で撮影しました。一見、家族の誰かが食べただけの写真に過ぎず、さすがの先生も訝るのでは、と思いましたが、どうしても理解してほしかったのです。

 ユタカは午前3時半頃、また床に就きましたが、4時頃急に目が覚めて、こんなことを言いました。

 「ねえ、今寝てたみたいだけど、また女の子が夢に出てきたよ。『おいしかった』って言う声が響いてさ、かすり模様の頭巾ともんぺ姿の可愛い女の子がにこにこしながら消えていったんだ。今、変な気配は何もないね。もう成仏したのかもしれない。大丈夫だよ、妙な空気もすっかりきれいになったから」

 時間は、もう午前4時になっていました。

 2008年夏、7月15日の「プリン事件」以降、食事を求める者や、話しかけてくる者が徐々に増えていったのは、今思うと恐ろしいの一言に尽きます。

 多くは「成仏」を嫌がり、私たちのそばに寄ってくる人々でした。なぜここまで超常現象が収集がつかなくなったのかは、後で知ったことですが、この世とあの世を隔てる「結界」というものが、我が家では既に崩れ去っていたためでした。