2010年4月10日土曜日

第4章―現象の乱舞―1―最後の前兆:part3―カウンセラーへの相談

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 2008年5月29日の午前3:15~20 に起きた、無人の隣室の壁を叩く音で、私と母と息子は起きたのですが、その音は、その後30分続きました。しかし私達が眠れないから、と体を起こすと、ピタリと音は止みました。

 AM4:35 頃、皆が床に就いたら、また「トントントン......」が始まり、うるさいほどです。

 「うるさくって眠れない。なんで、こっちが寝たら音が始まるんだ」

 ユタカがそう言い、私もため息をついて3分後に身を起こすと、その動作を見極めているかのように、また音がストップするのです。

 泊まりにまた来ていた父が、「何の音だろう。全く分からん。悪戯にしても、こっちの動作と合わせて、音を立てたり、停止したりは不可能じゃないのか」と首を捻りました。

 結局、リビングのドアは閉めても、独りでに開いてしまうので、父は「もうドアは開けて、ストッパーで固定しておけよ」と言いました。

 AM4:03 には「台所の灯りは全灯に」と私はメモを書いていますが、これも、父が「音がうるさいし、煩わしいことばかりだから、灯りをつけておけばいい」と提案したように記憶しています。

 5月30日、AM2:20,息子が「眠い」とやっと、床に就きました。私はかなり前から、就寝前にワインをカップ2杯ほど飲むようになっていました。

 ワインを飲むと、ストレスによって顔の左半分が冷えるようになっていたのが、少しぼーっとして、緩和されるのです。もちろん、恐怖心を抑えるという効果も期してのことでした。

 それでも、ワインを喉に流し込もうとした途端、また隣室の壁を、やや控えめに「トントントン......」と叩く音が始まりました。

 30日の午前中、父は再び一旦大阪に帰りました。多くの人との交流やハイキングなどの計画・案内で日々多忙であり、パソコンを用いた案内書の作成やメールの送受信、FAX による資料のやりとりなどは、すべて大阪の実家でないと無理なのです。

 それでも、私の家に泊まりに来る時は、色々な人と連絡が取れるよう、携帯は必ず持参していました。

 この日の午後、3:05~07 の間のことでした。

 遅く起きてきた息子が、口を洗いに洗面所に向かいましたが、その際、「洗面所に誰かいる」と彼は感じたのです。

 「ばあちゃんがきっといるんだな」と思ったほど、はっきりと確かに感じた、と後になって言いました。

 しかし、実際は誰もいません。この時、私はリビングにいて、昼食をとっていたので、ユタカが洗面所のスイッチをつけて、洗顔している様子は聞いていました。

 すると、急に、「バチン!」と大きな音が響きました。同時に、ユタカが「あれ?電気が消えちゃった」と言う声を聞きました。

 私がすぐに洗面所に行くと、やはりブレーカーの一番左端が下に降りていました。こういうことは、以前にも起きたので、異様に思いましたが、私は、息子に念のため尋ねました。

 「変だね。ブレーカー触ってないでしょ?ちょっと左端に手を伸ばしてみて」

 「なんで僕がわざわざブレーカー下げるんだよ?ほら、この洗濯機が邪魔で、やっぱり届かないでしょ」

 私は、嫌な予感を抱きながらも、一応下がったブレーカーを元通り、上に戻しておきました。

 その後、一緒にリビングに戻ったのですが、今度は私が驚く番でした。つい1~2分前まで、私が食事をしていたリビング全体が薄暗くなっていたのです。

 ふと周囲を見渡すと、テーブルの上の照明と、流しの蛍光灯が消えていました。

 インターホン左横のスイッチは、リビングのシャンデリアとテーブルの上の照明がつく右側の方向のまま、特に変わりはありませんでした。

 すると、やはりブレーカーなのかと思い、再び洗面所に行くと、案の定でした。今度はリビングの灯りに関係する、左端から2番目のブレーカーが下がっていたのです。

 息子が洗面所で洗顔中、左端のブレーカーが落ち、次に誰もいないリビングに戻ると、2番目のブレーカーが落ちていた。

 この二つの事柄の間は、ほんの2分程度のことであったのです。このほんの数秒ともいえる短い間に、誰もいなくなった洗面所で、まるで誰かが2番目のブレーカーを下げたかのようで、気味が悪くてたまりませんでした。

 このことを、夕方6:45 に、母が父に電話しました。父は、こう言いました。

 「まあ、ブレーカーのことは気のせいかもしれん。人のいる所では、ミスは必ず起きるもんだからな。もしかしたら、ブレーカーの故障かもしれんから、電力会社に一度、点検してもらいなさい。一応、実際に起きたことを報告して。その前に、自分の家のことだから、どのブレーカーが、どの部屋と関係があるのか、実験してきちんと整理した書面を作ることだな」

 父の考えとしては、「家の中で奇妙なことが起きている、と言っても、一部は気のせい、ということもある。それに他人に『奇妙なことが起こる』と話しても、信じてはくれない。だから、現実的な面を重視して、ブレーカーなどの機械的な部分で通常とは異なることが起きたら、何か欠陥が起きているかどうか、それを調べてもらうのが先決だ」というものだったのでしょう。

 つまり、「非現実的なことが家の中で起きている」事実は認めるけれども、その中には「ごく現実的な部分、物理的に起こり得る部分」が必ずある。その部分を確定する方が、不安が早く取り除かれる、という、非常に実際的かつ効率的な対応の方法を教えてくれたのです。

 この方法は、ほんの2,3日間、ブレーカーの様子が変だ―そういう場合には、確かに効率的だったといえるでしょう。

 父の懸念は、手に取るように分かりましたが、「電力会社の技術者に点検してもらっても、何も異変はない、と言われるのではないか」というのが私の正直な感想でした。

 実際、私は早速、すべてのブレーカーについて、どの部屋と関連があるのか実験し、詳細に調べ、関西電力に連絡し、ワープロで整理した書面を確認してもらった上で、6月1日、父が立ち会いのもと、技術者の人に点検してもらいました。

 ところが、答えは「何も異常はありませんねえ」ということでした。

 これより以前の、5月26日に、私は母とこんな会話を交わしたことを記録していました。

 ―私が「これで10日も、夜、普通じゃあり得ないことが起こって、子供の前でうろたえたりしないけれど、いつも夜、場合によっては昼間も変なことが起こるでしょう。もう、心がいつも緊張していて、よく眠れないし、疲れるわ」と言った。

 母は「戦争中の時、空襲の時より、こっちが怖いよ。うちの中だけ、こんなこと起こるんだからね。もしこれで、外部からの侵入者の痕跡があったら、と不安だわ」と言った。―

 母が、「戦争中より怖い」と言ったことで、私の恐怖はより強まりました。

 戦争中は、空襲に曝されて、いつ死ぬか分からない、という恐怖がつきまとったことでしょう。しかし、「戦争体験」は、「他の人も同様に空襲による死の恐怖と向き合っている」という状況でもあるのです。

 要するに、恐怖の質は、「この恐怖を他人と共有できるか、できないか」で、決定的に異なってくる、ということになります。

 我が家のような、「物理的に不可能なことが起こる」といった経験は、病気や怪我のように、誰もが日常的に経験するわけではありません。

 むしろ、誰に話しても、「そんなことが現実に起こるわけがない」と相手にされない類の経験であるために、私達家族の抱える恐怖は、まったくの孤独なものとなっているのです。

 その孤独さ故に、恐怖感は計り知れないものがあるのです。

 しかし、この5月の末頃、私達の恐怖に対し、唯一、関心を抱いてくれる人がいました。それは、息子の不登校について週1回、相談を担当する中学の心理カウンセラーの島田先生でした。

 いつも、火曜日に私一人が、中学の教育相談室に予約の時間に訪問し、日頃の息子の様子を報告し、アドバイスを受けていたのです。

 懇切丁寧に話を聞いて下さるので、自然な流れから、私は「最近、家で奇妙な現象が起きて、夜、眠れなくて困っています」と打ち明けたのです。

 その先生は、まだ29歳の若い男性でしたから、私の話に、半信半疑ながらも、熱心に耳を傾け下さいました。

 「先生、不登校の子供さんといろいろお話された経験の中で、うちのようなケースをお聞きになったことはないですか」

 私がこう尋ねると、島田先生は、さあ、と首を傾げました。

 「全く無いです。でも、お話伺っていると、そんな怖いことがお家で起きて、家族の皆さんが、震えて夜も眠れない、そんな様子を思い浮かべるとねえ......本当に大変ですよね」

 島田先生は、自分でも大変な怖がりなのだ、と苦笑しつつ、私の話に心底ぞっとしたように、顔をしかめました。しかし、私の話を正しく理解したいと言う気持ちをはっきりと示してくれました。

 と言うのも、家の簡単な見取り図を、今度描いてきて欲しい、と依頼されたからです。

 「私は、急に灯りがついたり、ブレーカーが落ちたりすると、怖くってたまらないんです。ペンなどが勝手に転がったりすることも......こんな時、どう対処したらいいんでしょう?」

 私がこう質問すると、島田先生は、励ますようにいっしゃいました。

 「やはり、子供さんのことを考えれば、どんな異変が起ころうと、お母さんがうろたえず、毅然としていることが肝要ですよね。お母さんが叫び声を上げたり、震えていると、息子さんにも恐怖心が伝染しますから」

 私はそれはもっともだ、と感じましたが、現実問題として、異変が目の前で起きると、平静を装っていられないのだ、と訴えました。

 すると、先生は、心療内科の主治医に相談しては、と持ちかけてきました。

 「心療内科の先生なら、精神的な方面の専門家ですから。異変が起きた際の対処方法など、良いアドバイスが得られると思いますよ」

 私は、心療内科の先生の、自信の無さそうな小声や、物事を明確に説明しない様子を思い浮かべました。あの先生には、今回の話は通用しないんじゃないか、と思いました。

 それでも、何でも試してみないと始まりません。そこで、5月16日から30日までの2週間の出来事の概略をまとめて、ちょうど5月の終わりに相談に行った、と覚えています。

 しかし、薄々予想していた通りの返答しか得られませんでした。

 主治医は、どんなに私が書いたメモを元に、家での怪異現象を説明しても、首を振るだけでした。そして、小声で呟くようにこう言うのです。

 「私は、そんな出来事は信じません」

 もちろん、誰でも、いきなり「怪奇現象」の話を聞かされたら、「信じられない」と言うことしかできないでしょう。

 ただ、長年御世話になってきた主治医ですので、試しに更に尋ねてみました。

 「じゃ、目の前で不可思議なことが起きたら、どう対処したらいいんでしょう」

 すると、主治医は事も無げに、あっさりと答えました。

 「私だったら、何も起きなかったことにします」

 このやりとりで、私はこの先生に対する大きな失望と、信頼感が失墜するのを感じました。

 非現実な事実に対し、「信じられない」ではなく、「信じない」と言い放ったこと、真摯なこちらの質問を、無視するかのような返答に、心底落胆したのです。(To be continued......)

 

第4章―現象の乱舞―1―最後の前兆:part2―餅を貫通する黒髪

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 今現在は2010年となって1カ月が経ちました。そこで、私が「昨年」と書いていた2008年は、もう一昨年ということになります。

 もう2年も前のことになってしまったのですが、今年になってもなお、毎日のように不可思議な現象が起こります。そして、それらを私は、やはり「今日は、こんなことが起きた」と日記帳に書き留めています。

 そんなことをしても何にもならない、と知りつつも書くのは、2年前の体験がそうさせるのか、私の中では一つの習性のようになってしまいました。

 大晦日から、ほぼ毎日のように異変があることを、その日記帳を読むと改めて実感し、「なぜこうなるのだろう」と嫌な気持ちになります。

 それらは、一見、ほんの些細な出来事のように思われます。

 「2009年last: 12月31日(木)PM 3:45 お昼寝の後、起きて一人でお雑煮を食べていたら、CD ラジカセのビニール袋がガサッと音を立てた。よく見たら、CD を入れる蓋がひとりでに開いていた。(この蓋は指で隅を押さないと開かない。)嫌なので、TAPE とCD の蓋をセロテープで止めておいた。」

 そして年の変わり目となった2010年元旦の午前0時過ぎには、「今年は異変が起こりませんように」とテレビボードの上に飾った鏡餅に向かって、手を合わせたのです。

 けれども、お祈りをしても無駄でした。

 私は元旦早々、こんなことを日記に書き記しました。

 「2010年1月1日:PM 1:50頃 朝10:50~昼寝。ガスト(お弁当宅配)の人が来て目覚めて、お弁当をテーブルに運んだ。そしたら、昨日昼間、ひとりでに開いたCD ラジカセのTAPEを入れる蓋が、今度は、セロテープで止めておいたのに、(ビニールの上から)開いていた。」

 このラジカセには、埃がかからないよう、上からビニールを被せていました。そのビニールは、2009年9月末に壊れたパソコンを買い換えた際に機器の一部を梱包していたもので、サイズがラジカセを覆うのに適していたのです。

 CDとTAPEの蓋は、人が指でその隅を押さない限り、決して勝手に上に開けられることは不可能なのです。

 私は、2008年当時のような、「家族以外の誰かが、この家にいる」といった不気味な気配を感じました。

 この、大晦日と元日の出来事だけでも、私を震え上がらせるのに充分でした。

 なぜなら、「禍々しい事件の続いた2008年」は、もう2年も前、私の中では「過ぎ去った過去」になっていたからです。

 「こういうことは、新しく年が改まったからといって、終わることではないのだ」と思い、ゾクッとしました。

 1月2日、母が朝遅く起き、午前11時頃、お雑煮を作りました。私と息子はまだ寝ていましたから、母は食事の前に、まだ出していなかった年賀状を投函しに、マンション前の郵便ポストへと一旦出かけました。

 そして帰宅し、先に一人で朝食をと思い、お椀についだお雑煮を食べようとした時です。

 お餅に、黒く真っ直ぐな、こしのある15cm ほどの頭髪が刺さっていた、と言うのです。「刺さっていた」というより、お餅を、髪の毛が「貫通していた」という状態だったのです。

 この話も、私を驚かせました。

 母の髪はパーマをかけて、短く段カットしたもので、髪質も、茶色がかり、こしがない細い髪です。私の髪も、さまざまなストレスから、細くこしがなく、背中まで伸ばしたものです。

 息子の髪も、学校に行けなくなってから、時折フリースクールに行ってはいますが、あまり日を浴びないので、細くなっています。

 だから、「お餅を貫通していた」髪は、私達家族のものではないのです。

 何より、一つ一つパック包装されたお餅を、煮込んだだけなのに、そのお餅に、どうして髪の毛が「貫通する」などということがあるでしょうか。

 「髪の毛がお餅に落ちてくっついていた、というのなら分かるけれど、髪の質がうちの誰のものでもないし、大体、髪の毛がお餅を貫くなんて......」

 私はその場にいなかったのですが、母の話は本当であると確信しました。なぜなら、似たような異変が、2008年の夏、起きたからです。

 あれは2008年の7月頃でした。はっきり、「超常現象が起きている」と自覚し、怯えながら暮らしていた頃でした。

 息子が、母の作ったラーメンを食べようとしている時、急に「何これ?なんで?」と言ったのです。

 「ラーメンがどうしたの?」

 「ちょっと...!ラーメンの中に、ほら、髪の毛が貫通しているんだってば!気色悪い......!」

 息子は私にその麺をお箸でつまみ、ほら、とテーブルの上に置いて見せました。明らかに、細いラーメンの麺を貫いている髪の毛がありました。

 恐る恐る引き抜いてみると、それは茶色がかった、ウェーブのかかった髪でした。私の髪はパーマをかけていません。母の髪は、ラーメンを貫くほど長くないのです。

 「食材にいつの間にか、他人の髪の毛が混じる」などということは、通常ではあり得ないことです。しかし、そうした経験をした私には、今年1月2日の出来事が、奇妙ですが、ごく「当然」のように信じられるのです。

 このような怪奇な事象は、超常現象が激化してから起きたことでした。一方で、ラジカセの蓋が勝手に開く、などは、2008年の5月下旬に起きた「現象の前触れ」にも似た、ごく小さな異変に似通っています。

 「お餅の髪の毛」にせよ、「ラジカセの蓋」にせよ、その規模の大小に関わらず、こうしたことが起きること自体が、全く不可思議且つ怖ろしい現象なのですが、それらが起きた時、一時どきりと感じても、日記帳に書き留めて、暮らしていける―

 これも、やはり暗闇に目が慣れるのと同じ原理で、異様な出来事に対して恐怖心が麻痺してしまった、ということなのかもしれません。

 しかし、今の私が、いきなり2008年の6月から9月にタイムスリップしたとしたら、「どうしてこんな怖い目に遭わなければいけないのか」と、再び運命を呪うことになるでしょう。

 その信じがたい運命の扉は、5月31日から急速に大きく開かれ、私達家族は、超常現象の渦にあれよあれよと巻き込まれていったのです。

 その最後の前兆ともいうべき時期は、5月28日から30日であった、と言えるでしょう。

 2008年5月28日、再び、父が大阪から私の家に泊まりに来てくれました。この日から29日までの異変の記録は、次のように残されていました。

 「28日:AM 0:35 (玄関施錠・洗面所、風呂場、トイレ・書斎全部ドア閉め消灯OK, ガス元栓OK, ブレーカー上向き確認OK, ベランダ施錠)すべてOK

 → AM 2:05, (母と息子と私が寝ている)ユタカの室内の床を、人差指でトントン叩く音がする(もうユタカは眠っている)→ AM 2:10~また、(誰もいない)隣室の壁か?または下?天井辺りを叩く音が始まる。」

 「29日:(寝る前にはリビングのドアを閉めていつも通り、施錠&消灯OK)→ AM 3:15~20, 左の(無人の)隣室の壁を叩くような音で目が覚める。玄関の灯りはついており、リビングのドアは開けっぱなしになっていた。

 AM 1:45 に私トイレの際、リビングのスイッチ(一番下)をつけてトイレに行く→ その後寝室に戻る前、リビングのスイッチは消したが、なぜかスイッチは玄関の灯りがつく方向に変わっていた」

 この晩は、午前1:45 に私がトイレの後、リビングのインターホン左の一番下のスイッチを左側に押して、玄関の灯りを消したのです。そしていつもの習慣として、リビングのドアを閉めたのです。

 しかし、午前3:20 頃に、壁を叩く音で目覚めると、リビングのドアは大きく開かれ、玄関の灯りはついていた、ということです。しかも、リビングのスイッチは、玄関の灯りのつく右側が押された状態になっていた、ということなのです。

 この後、同様なブレーカーや灯りの異変が続くのですが、それも30日で大方収まってしまいました。否、収まった、というよりは、31日からは真の現象のエスカレーションがスタートした、と言うべきなのでしょう。(To be Continued......)