2011年11月10日木曜日

第7章「炙り出された正体」―5―空になったプリン

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それは何がきっかけで始まったのかは皆目見当がつきません。ただ私は、その少女の泣くようなお経の繰り返しを、「お経を唱えないで」との訴えではなかったのか、と解釈したのです。

 なぜそう感じたのかといえば、息子の夢に、とある少女(実際にお経を真似た少女と同一人物かは不明)が出現し、「お経は意味ないよ。それよりお腹空いた」と語った、と聞いたからに他なりません。

 彼女は、その舌足らずな口調とか細い声の響きから、もしかすると「お経は止めてちょうだい」と主張できるほどの年齢ではなかったのかもしれません。

 それでも、私の唱える「南無妙法連華経」を懸命に真似したことから、私はその声を聞いた経験を全く予期しなかった「霊との対話」ととらえたのでした。

 「死霊との対話」に関しては、「対話」との言葉よりも、霊媒者の方たちがよく行う「交信」といった表現が使われることは、いろいろと調べるうちに分かったことでした。

 欧米でもよく行われ、いわゆる「ミドラー(middler)」または最近では「チャネラー(channeler)」と呼ばれる霊媒者が、「霊界」と「この世=現実世界」との仲介者となります。彼らは、冥界から霊を身近に呼び寄せ、霊の語る内容をテレパシーで聞き取り、それを手元で自動的に筆記するという方法をとる、ということです。

 専門的にそうした超心理学や霊界研究を行っている人々、また、そうした超自然的な能力を得るに至ったか、もしくは生来備わっていた人々には、「霊との交流」を「交信」と表現した方がまさに適切に思われるのです。

 しかし私たちは、そうした知識も能力のかけらもなく、いきなりポルターガイストと呼ばれる怪異の渦中に放り込まれたのです。他の一般家庭と特に変わった点はありませんでした。

 「特別な点」を強いて挙げるとすれば、私が突然の薬害で入院し、それまで10数年勤務していた大学の講師職を辞めたこと、その翌年、息子が中学に進学し、いじめを受けるようになり、更にその翌年、2008年3月から不登校になった、ということかもしれません。

 また父親も、息子が生後2歳に満たないうちに交通事故で亡くなったという事実もあります。しかし、両親の一人がおらず、母親が突然入院したり、子供がいじめられて不登校になる、といったことは、日本中、世界中で起こりうることに過ぎません。

 70億もの人々が住む世界では、様々な事情を抱えながら暮らす家庭が多いことを考えれば、私たちの家庭もそういった意味で、ごく平凡な家庭であったのです。

 そうした「平凡さ」を暮らしていた日常に、いきなり「霊」としか考えられない存在たちが入り込み、私たちのすぐそばにいる、ごく普通の「人間」のように「しゃべった」ために、私は、その経験を「対話」と言い表した方が、自分のその時の印象によりかなっていると感じたのです。

 夜が明け、7月14日の昼間、午後2時40分頃、食卓の右端に何気なく置いていたサインペンが、パンをかじる息子の目の前で、凄い勢いで左斜めへと真っ直ぐ飛び、ピアノのペダルの下に挟まりました。

 こうしたことは、今までと同様、突然起きるのです。

 私はその時、洗面所からリビングに入ったばかりでしたが、その青い縞模様のペンが飛ぶ様子に直面し、肝を潰しました。

 いったい、恐怖の感覚というものは、ある時には壁の轟音に凍りつくかと思えば、それに次第に慣れてしまい、恐怖感にある種の耐性がつくと感ずるものですが、それは錯覚に過ぎないようです。

 しばらくそうした現象が鎮まっていると、その激しい「ラップ音」よりも遙かに規模の小さなことにもひどく驚いたり、心臓の鼓動が波打ち、冷や汗をかいたりするというわけで、「一定の基準」などないのです。

 壁の轟音や「物が飛び交う」ことよりも、「何者かの声が聞こえてくる」方が、ずっと恐怖感は小さいのではないか、と冷静に考えれば、そう思われてきます。

 しかし、種類や規模こそ違いはあれど、また「新手」の恐怖が、「何者かの声」にはつきまとうのです。

 昼間は、以前から起きていたような、「物が飛ぶこと」や「物の位置が勝手に変わること」はあっても、母が「触られる」ことや「声が壁から聞こえてくる」ことはありませんでした。

 しかし日が変わり、7月15日火曜日の夜中になると、またもや怪奇の闇が大きく口を開けることとなりました。

 私は、当時の記録ノートに「7月15日(火)」とあらかじめ日付を書き、その横に、"I wish nothing'll happen!" (何事も起こりませんように!)と英文を走り書きしていました。その願いも虚しく、時の流れを人が止めることができないのと同様に、奇怪なことが起きるのをせき止めることは、人智を越えた力でない限り、全く不可能なことでした。

 その晩、午前2時10分から30分の間、母がやはり体中を「触られる」ことが起きました。母は、必死になって、「南無妙~」の文言を心で唱え続けました。すると、昨夜と同じ少女が再び、その文言を息絶え絶えに繰り返す声が、何回か、息子と母との間で明瞭に聞こえてきました。

 私は、その少女が「唱えないで」と願っているのではないかと昨夜感じたものの、母の辛さをやはり救いたい、その思いが強くなり、10回ほど、「南無妙」を唱え続けました。

 すると、少女は、苦しそうに、「ウッ」「ヒッ...」と呻くと、苦しげに、「般若心経は...意味がないよ...」と細い声で語りかけてきました。

 その直後、また母が触られたり、息子の耳たぶまでが冷たい手で触れられました。ユタカは畏怖感が鈍り、「もうどうでもいい。眠たいよ」とぼやき出しました。

 しかし私は、今のこの異変を収めたい一心で、「私たちは何も悪いことをしていません。あなたも同じです。だから私たちの幸せを壊さないで、静かに成仏して下さい、お願いです」と何回も念じ、母も「南無妙」を唱えていました。

 この間、布団の下のティッシュボックスが妙にカサカサいうなあと思っていました。私はトイレに立ちましたが、寝室で「ガン!」と大きな音が聞こえました。戻ってみると、案の定、そのボックスは、入り口の襖に当たり、私の布団に落ちていました。

 息子は、もうウトウト眠っていたので、部屋の明かりを消しましたが、急に彼は「ワッ!」と跳ね起きました。

 「今、夢で、5、6歳の女の子の骸骨が白っぽく机の前に立ってたんだよ!それに『何かおいちいもの食べたい』なんてことも言ってた」

 私は何か今までにない強力な力が迫り来る不安で、その夢の話に重苦しい空気を感じたため、就寝前の安定剤を追加しようと台所に行きましたが、その時、息子の鉛筆が寝室からパソコン机の下にビュッと飛んで来ました。

 その現象は、昨夜からお経の文言を苦しげにはっきりと声に出す少女の苛立ちから起きたことと思いました。お腹が空いているのなら何か食事を出せば収まるのだろうと、私は冷蔵庫を開けて、ちょうど前日の夕方、コープで買ったプリンを取り出しました。

 私はそのフィルムで覆われたプリンを食卓の上に置き、「これをどうぞ食べて下さい。そして成仏して下さい」と深々と頭を下げ、手を合わせました。その時は、仏壇に「お供え」をする形式的な儀礼と同じ感覚でプリンを置いたに過ぎませんでした。

 恐怖が私を寝室へと追い立て、私は慌てて襖を閉めました。そしてそのまま、母と息子とで、テーブルの気配を伺っていました。

 私は、プリンはそのままで、いずれ少女の気配は消えるのではないかと高をくくっていたのです。

 森閑としたリビングに、やがて異様な音が聞こえてきました。それは、テーブルの椅子に誰かがおもむろに腰かける音でした。

 よく耳を澄ますと、ごく普通にプリンの上蓋フィルムを「ペリッ」とはがす音が聞こえてきました。

 敏感なユタカが、驚きの声を上げました。

 「ちょっと......!今、ペリッて音、したでしょ?ねえ、何かペチャペチャ食べているような音がする......あっ!今カランッて音がした。もう食べ終わったのかな......?」

 「まさか、亡くなった人がお供え物を食べるはずないでしょ......?そんなことあったら、それこそ驚異だよ」

 「でも、フィルムはがす音、聞こえたじゃんか」

 もしかして、「幽霊」が食べ終わったのかと、3人で恐る恐るテーブルに近寄ってみました。

するとそこには、目を疑うような光景が私たちを待ち受けていました。

 コープのプリンは、ものの見事に空っぽになっていたのです。

上蓋のフィルムは、容器ギリギリの部分まで剥がされ、中のプリンは「誰かが食べ終わった時のように」隅々まできれいに食べ尽くされていました。そして、空の容器はお行儀よく、元の位置からほとんど動かず、「ごちそうさま」といった感じで丁寧に置かれていたのです。

 亡くなった人の仏壇には、生前その人が好きだった食事をあくまでも「お供え」として、霊を慰めると同時に、遺族が気持ちを癒すために用意するのが一般化しています。私がプリンを出した時も、そうした意味合いが濃かったのです。日本中、「お供え」がいつの間にかペロリとたいらげられていたら、それこそ怪異でしょう。

 私たちは、息子の夢に現れた少女とは縁もゆかりもないものの、「お腹を空かしてさ迷っている戦争中の少女」のために「お供えでその子の気持ちが満足するのなら」とプリンを置いただけでした。

 幼い頃から、実家の仏壇に「お仏飯」をお供えし、線香を立て、ただ手を合わして来た私には、この「プリンの事件」は、今まで以上に奇々怪々な出来事でした。

 「まあー!ほんとにプリンを食べるなんてねえ!こんなことってある?まあ驚いた、気色悪いったら」

 「だいたい、もう肉体というものがないのに、一体どうやって食べることができるの?」

 私は母と口々に言い合い、開いた口がふさがりませんでした。

 私は、カウンセラーの島田先生に見せようと、その空になったプリンの容器を携帯で撮影しました。一見、家族の誰かが食べただけの写真に過ぎず、さすがの先生も訝るのでは、と思いましたが、どうしても理解してほしかったのです。

 ユタカは午前3時半頃、また床に就きましたが、4時頃急に目が覚めて、こんなことを言いました。

 「ねえ、今寝てたみたいだけど、また女の子が夢に出てきたよ。『おいしかった』って言う声が響いてさ、かすり模様の頭巾ともんぺ姿の可愛い女の子がにこにこしながら消えていったんだ。今、変な気配は何もないね。もう成仏したのかもしれない。大丈夫だよ、妙な空気もすっかりきれいになったから」

 時間は、もう午前4時になっていました。

 2008年夏、7月15日の「プリン事件」以降、食事を求める者や、話しかけてくる者が徐々に増えていったのは、今思うと恐ろしいの一言に尽きます。

 多くは「成仏」を嫌がり、私たちのそばに寄ってくる人々でした。なぜここまで超常現象が収集がつかなくなったのかは、後で知ったことですが、この世とあの世を隔てる「結界」というものが、我が家では既に崩れ去っていたためでした。

2011年10月12日水曜日

第7章「炙り出された正体」4―お経を真似る少女の声

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 蝉の鳴く暑い7月中旬になっても、毎週1回は、中学の相談室へと足を運ぶのが、もうお決まりの行事になっていました。私は家から徒歩20分ほどの道を、日傘を差しながら歩いて行きました。

 私は、この道を歩くのが嫌でした。新しい制服や、体操服、体育館シューズの寸法を測るために、入学前の3月の末、息子と一緒に歩いた道だったからです。その時は、まさかひどいいじめに遭うとも知らず、中学での新生活に期待を抱きつつ、楽しい思いで歩んだ道でした。

 また、この道は息子が12歳の4月から13歳の3月初旬まで、苦しい、辛い想いをこらえながら、独りぼっちで登下校した道でした。彼には、中学には、何一つ良い思い出がないのです。

 赤い煉瓦の家を左に曲がり、右手に象の形を模した滑り台のある公園、左手に閑静な住宅街が続く道になると、もう正面遠方には、体育館の青い屋根が見えてきます。

 校門の前に立つと、1年前の4月、入学式の後、ぶかぶかの制服を着た新1年生たちのクラス記念写真を撮影したことが思い出されます。

 その時、息子は寂しげな表情を浮かべていました。進学し、新しい希望に胸膨らまし、笑顔で映っている同級生たちの中、ただ独り、憂鬱な顔で―

 その校門を見ただけで、私は暗鬱な気持ちになり、涙が滲んできました。そそくさと中庭に入り、客用玄関からスリッパに履き替え、校内へと足を踏み入れます。

 そんな時でも、制服姿の中学生たちがドヤドヤと廊下を歩いて行ったり、何かの検査のためにクラス単位で相談室近くの廊下に並んでいたりすると、「なぜうちの子は、制服を着て、こうして学校生活を送れなくなったのだろう」と悲しくなるのです。

 やっと相談室の前に立ち、ドアをノックすると、私は、一つの使命を半分やりおおせた気持ちになるのでした。

 しかし、これから先生に会い、7日分の出来事を話さなければならない、と思うと、それがまた重荷に感じられました。

 「どうぞ、お座り下さい」

 相談室は、6畳ほどのこじんまりした広さで、入ってすぐ、人目を遮るためか、半透明のついたてがありました。応接セットの正面に、先生が事務を執るデスクと、左側に移動式の白いボードが置いてあり、右側の窓からは午後の日差しが射し込んでいました。

 時折、廊下での生徒たちの喧噪や、管弦楽の練習などのざわめきが聞こえる中、私は促されるまま、ベージュのソファーに腰を沈めました。その感覚は心地よく、固いアスファルトの道をトボトボと歩いてきた疲れが、やっと帰宅した家の布団に体を横たえ、癒される感じとよく似ていました。

 「最近は、いかがでしょうか」

 そう問われて、私は、いろいろと書き込んだメモ帳を取り出しつつ、時間を気にしました。先生は、応接台の上の時計をこちらに向けて、「今日は、いつものように1時間お時間とりましょう」と言うのが常だったからです。

 1時間ほどで、この1週間の間に起きた様々なことを話せるだろうか―そう気にかけ、なるべく要点だけを話していくのですが、気がつくと、2時から3時の約束が、3時半を軽く過ぎることは珍しくありませんでした。それでも、先生は、根気強く、こちらの話に興味を持ち、真剣に聞いて下さったのです。

 「そんなに、おばあちゃんばかり、叩かれるんですか」

 「ええ、最初は私と息子も叩かれる、ということがほんの少しありましたけれど、本当に一時だけです。このところは、母ばかり、肩や腕をね、左右構わず、トントンと叩かれるんです。それが、たいてい午前2時、3時過ぎから長い時で1時間半は続きますから、毎晩、睡眠不足でね。今日も、お昼前にやっと起きたんですよ」

 私は、ノートの最初のページに、私自身が叩かれた事実を記録していたことを思い出し、先生に話しました。

 「そう言えば、こういうことは、7月に入って、と思っていましたけど、違うんですね。私が、まず6月5日の木曜日、食後の夜8時50分頃、『右肩を叩かれた』って書いていました。私が、最初だったんです」

 「ああ、確か、そんなこと、おっしゃっていましたね」
 
 私は、「6月5日、私の右肩を、強く注意を促すように、トントントン!と、最後はぐっと押すように叩かれた」との記述を先生に見せました。

 「あまり急だったので、息子が叩いたのかと思って、『え、何?』と言ったほどなんです。でも、息子は、私から20cm は離れた前方の椅子で、膝を抱えて、テレビを見ていたんです。その様子は、母も見ていました」

 「じゃあ、本当に、お母さんが、背後から、誰もいないのに、肩を叩かれたんですよね」

 島田先生は、そう言いながら、改めてぞっとしたように、眉を寄せました。

 「僕はね、以前もお話しましたけれど、こういう怖い話は、まるっきり苦手なんです。お母さんが最初の頃お話された、山岸涼子さんの本もね、あれ、読んでみたんですけれどね」

 「あっ、あの本、買われたんですか?」

 「いや、本屋でこれか、と思って少し立ち読みしただけです。でも、あれ、全部読めませんね。ああいう恐怖感っていうのは、ダメですね。こう、頭をきゅーっと締めつけられて、全身にぞくぞくーっと広がっていくような感じがして―あの単行本すべての話が、そうですねえ。でもね、おかしな話ですけどね、僕、『オーラの泉』はよく観てるんですよ」

 「えっ...『オーラの泉』......?」

 「そういう番組があるんです。美輪明宏さんと、江原啓之さんとがレギュラー出演で、人の魂とか、死後の世界とか、輪廻とか、人間心理とか、そういうことを語り合うんですよ。今度、ご覧になったらいかがですか」

 私は、作家の佐藤愛子さんが、芸能人の美輪明宏さんと、スピリチュアル・カウンセラーの江原さんの助言に助けられながら、深刻な心霊問題が解決へと向かったことを思い出しました。

 また、私は、高校時代の友人に、家で起こる「怪事件」を、その都度、携帯のメールで知らせていました。その友人は、返信で、「私、『オーラの泉』観てるから、そういう話、結構信じる方よ。もう、それだけ凄い体験してたら、江原さんのお弟子さんになれちゃうんじゃない?」と送信してきたことがありました。

 その返信を見たときでも、『江原さん』とはどんな人なのか、全く知りませんでした。私が『江原啓之さん』の名を知ったのは、その後、佐藤愛子さんの本を買ってからであり、まして、『オーラの泉』というのも一体何のことなのか、分かりませんでした。

 「その『オーラの泉』で、美輪明宏さんが、こう言われたのを覚えていますよ。『亡くなった人の魂は、決して怖いものではありません。彼らは、この世に思い遺すことがあって、さ迷っているのです。だから、もし、彼らに出会うことがあれば、こう念じたら良いのです―どうか、心安らかに成仏して下さい。私たちは、決して悪いことはしていません。どうか、私たちの生活をお守り下さい―』ってね」

 「美輪明宏さんって、そういうことに通じた方だったんですか......」

 「ええ、だから、お母さんも、夜、『怖いなあ』と感じる目に遭われたら、そんな風に念じたらどうでしょうか」

 普通なら、私たちの「怪奇談」など、「あり得ない」と一笑に付されてしまうでしょう。しかし、島田先生は、「怖いですね」と言いながらも、問題と真正面から向き合い、解決案を提案して下さる方でした。

 時計を見ると、もう約束の時間はとっくに過ぎ、3時半になろうとしていました。先生は、少し話題を変えて、息子の話にもっていきました。

 「お母さん、ユタカ君がこのまま、中学に通わないままでも、それで良いとお考えになることはできますか」

 先生の唐突な質問に、私は問いに窮してしまいました。息子には、できたら中学に復学してもらいたい、と常日頃思い、また息子も、「復学したい」と望んでいる、と信じていたからです。

 「うーん......それは、また学校に行けるようになれれば一番いいんですけれど......現実問題として、結局......無理ですよね。だって、戻ったところで、また嫌がらせをした生徒と顔をつきあわせるだけですから―」

 「でしょう?だから、中学はね、在籍したままで、無理に通学しなくってもいいんですよ。最近は、『フリースクール』というのが増えてましてね、お聞きになったこともあるかもしれませんけれど」

 「フリースクールって、でも、一般の学校ではないんでしょう?」

 「ええ、時間的にも規制のない、言葉通り、自由な学校です。時間割なんてないしね。一応、朝の9時ぐらいから夕方5時くらいまで開いてますけれど、好きな時間に行っていいんです。最近は、中学に在籍したまま、そうしたスクールに行く子が増えています。不登校などで行けなくなった子供たちがね。そこでの目的は、学習も、個人指導が受けられますが、何よりも『同年輩の子供たちと触れ合う』こと、そして『一緒に戸外で活動すること』なんです」

 ユタカは、中学に入ってから、毎日登校していたものの、夏休みを過ぎると、美術部も止め、よく吐き気で保健室に行ったり、早退して、保健室の先生の車で送ってもらったりするようになりました。13歳の3月中旬からは、もう4ヶ月もの間、同年輩の子供と誰一人として接していないのです。

 通学している間でも、親しい友人に恵まれず、ただ苦しい日々を送っていただけで、それを考えれば、12歳の春からほとんど独りだったようなものでした。

 「子供にはね、外の新鮮な空気と、体を動かすこと、そして同じ年頃の子供たちと遊ぶことがとても大事なんです。不登校になった子供たちは、そういう当たり前のことが不可能になっているんですが、フリースクールに行けるようになると、だいぶ違ってきますよ。同じ中学で、1年上の榊君も、中1の夏から来てますよ、もう2年間かな」

 「榊君って、榊真人君ですか?同じマンションで、よく小学1年からうちに遊びに来ていましたけれど」

 「ええ。榊君は、大勢の子と騒ぐのは苦手で、でも、個性的ないい子ですよね。中1の夏休み前から学校に行けなくなって、私が家庭訪問した時も、部屋に引きこもって会ってくれなくってね。それから、夏休みの間、ずっと母方のおじいちゃんのお寺で過ごしていたそうです。中1の秋の末頃、私がフリースクールに誘ってみると、以前と違って前向きになってましてね、今じゃすっかり元気ですよ」

 「今でも榊君は、ずっとそのフリースクールですか?」

 「ええ。今は、そのスクール主催のキャンプに参加しています。だいぶ、昼夜逆転も治ってね、高校進学の準備もしてるんですよ」

 私は、そのスクールの資料を見てみたいと申し出ると、先生は、にっこりして、机の上にあったフリースクールの案内書を手渡してくれました。そこには、『やまばと』とのスクール名が書かれてありました。

 私は、自分がそうであったように、子供は皆、普通に中学、高校と進学していくものだ、と考えていました。このフリースクールの存在は、そんな私の「常識」を覆してくれました。どんな形であっても、子供の道は開けてゆく事を知り、形式的な「常識」が、息子の将来を閉ざしていたことを理解することができたのです。

 フリースクールの存在は、暗闇に差し込んだ、まさに一条の光でした。

 「不登校の子でも、そのうち自然に家にじっとしていられなくなる。家にばかりいるのは子供本来の姿ではないからです。お子さんが外に出たいと自ら言うようになれば、不登校は卒業の時期です。そういう日が必ず来ますから」

 私は、その先生の言葉に励まされました。「ユタカがそのフリースクールに行けて、またマサト君と遊べればどんなにいいだろう。そうして、中学に通わなくても、高校にも進学できる道がある」―そう思い、その日は希望を持って帰路につくことができました。

 昼間は、私や息子の心情を思いやり、家での不思議な出来事にも耳を傾けて下さる方と話をすることで、3ヶ月前から始まり、今も続く現象への不安や恐怖も落ち着き、「私はこうして普通の世界で暮らしている」実感を得ることができ、救われた心地にひと時浸ることができました。

それでも、帰宅し、夜になると、怪奇の闇は音もなく訪れ、私たちは再びその底へと呑み込まれ、毎夜毎夜、心霊現象に怯えなければなりませんでした。

 7月13日の日曜日、午前3時から4時までの1時間、やはり母が叩かれる、ということが起きました。私やユタカが叩かれることは以前はたまにありましたが、その日も、もっぱら母だけが「攻撃」を受けるのです。

 母は、「何か」に、トントン!トントン!と、手足を左右、関係なく、ひっきりなしに叩かれ続けました。

 母は、たまらなくなり、昨夜と同様に起きあがり、『般若心経』の最後の部分を必死に唱え続けました。

 すると、ユタカが「消えた。気配はもうない。いなくなったよ」と言い、「ばあちゃん、もう唱えなくっていいんだよ」と、泣きながら震える母に声をかけました。

 「......いいの?......ホントにいいの?また、叩くんじゃないの......?」

 「本当にいいんだよ。大丈夫だよ、ね、ほらね」

 もともと心臓の弱い母は、青ざめて汗をかいていましたが、何も体に感じなくなったのをようやく理解したらしく、ほーっと長い息をつきました。

 私自身も、恐怖と戦いながら、懸命に『般若心経』を唱えていましたが、先日、島田先生から聞いた『オーラの泉』の話を思い出しつつ、「どうかどうか、消えて下さい。お願いだから成仏して下さい。私たちの生活を守って下さい」と「叩く相手」に一心に念じていました。

 先生のお話を聞くまでは、不可思議で不気味な現象に対して「敵が襲う」といった印象しか抱くことができませんでした。

 しかし、7月の中旬頃からは、その現象を起こす「相手の心」を、少しずつ意識するようになったのです。確かに何か訴えたいのには違いない、だから私たちに物を投げたり、体に触れたり、壁を叩いたりするのだ―

 そう「理解する」努力を、少なからず意識し始めようとしていたのです。それでも、「姿の見えない相手」の起こす行動は、決して楽しいものではありません。

 「相手が姿が見えない」時点から、彼らの起こす「現象」は、私たちには恐怖なのです。そして、「なぜ、よりによって私たちがこんな怖い体験をするようになったのか」という、これまでにも何回も繰り返してきた、当て所のない問いで心が支配されるだけでした。

 翌日、7月14日の月曜日のAM3:40~50頃のことでした。

 その晩も、母が、「まあ、気色悪いよ」と震え上がり、眠気を覚まされ、学習机に寄りかかりました。

 私は、毎晩の現象に警戒する癖がつき、この時間まで眠れずにいました。

 「また、叩かれるの?」

 「腕を叩くんだよ、トントンって......! あっ!今度は手を触った!......ああ、嫌だ......あらっ!今度は肩よ、肩を触るの......ああ、気色悪い、どうしよう......」

 母は、すがるように、枕元のお経のコピーを手に取り、『般若心経』の最後の部分、「ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそうぎゃーてい、ほうじ、そわか、般若心経」との文言を数回唱え始めました。

 その唱えている最中も、「あっ!また触られた......!」と悲鳴に近い声を上げ、お経をその都度中断し、タオルケットで全身を覆いました。

 タオルケットで「触れられないように」しても、「何者か」は、母の肩や腰などを、その上からしつこいほどに、トントントン!と叩くのです。母は、目をつぶり、苦しそうにしかめ面をし、歯を食いしばるように無言で、全身を強ばらせていました。

 そんな母の姿を見ながら、私は何か方法がないか、と懸命に考えました。そんな時、思い出したのは、佐藤愛子さんの本の内容でした。

 「ねえ、佐藤愛子さんが、確か、『南無妙法蓮華経』だけでも唱えたらいいと書いてあったよ。あの文言は、魔物を退治するらしいからって。ねえ、そうしたら......?」

 母は、それを聞いて、すぐさまその文言を唱え始めました。確か、5~6回は唱えたかと覚えています。

 すると、ユタカが、「ねえ、気配消えたみたい。もう、何もいないんじゃないかな」と言いました。

 息子は、いったん眠りかけていたのですが、「『いつもの気配』をばあちゃんのそばに感じて、眠れなくなって、ずっと起きていたんだ」と私に言いました。

 「本当に、『南無妙』が効き目あったのかしらね」

 「うん、さっきまでいたのは、幽霊じゃなくって、魔物だったんだね。それで退散したんだから」

 それから約40分後の午前4:30 頃、母が再び「触られる」ことが始まりました。

 私は、早速、「南無妙法蓮華経」を3回ほど唱えました。先ほど、この文言で、母を叩く「誰か」は、その手を引っ込めたからでした。
 
 「大丈夫、このお経は効くんだ」

 そんな妙な自信にも似た気持ち、「誰か」を打ち負かすような勝利感が私にはありました。お経の意味も解しないまま、ただ魔法の呪文を唱えている陶酔感が、恐怖の中に混じり合っていました。

 すると、私のお経に続くように、息子のもたれている壁の方から、苦しげな少女の声が聞こえてきました。

 「ナムミョウ......ゲキョウ......」

 それはか細く、息絶え絶えな、まだ4、5歳かと思われる幼子の声でした。

 親にお経を教わって、それを、べそをかきながら懸命に真似しようとしているような口調でしたが、特徴的なのは、今にもかき消えそうな、死にかかっているかのような苦痛にあえぐ声でした。

 その声は、苦しげながらも、静まり返った明け方の寝室に、はっきりとした音声で響いてきたのです。

 私はそれまでに、「不透明な相手」の長い台詞を聞いたことがありませんでした。5月の末頃、ベランダから「ママ...ママ...」という、やはり苦しそうに訴える少女の声が聞こえたことはありました。

 また、6月の旅行の際、最初に泊まった部屋で、私と息子しかいないのに、いきなり「すみませーん、お部屋のお掃除に来ましたー!」との若い女性の元気な声も聞きました。

 しかし、これら二つの経験は、私たちの意志とは全く無関係に起こったことでした。

 今回のように、お経の文言をそっくり真似る「声」を聞いたのは初めてだったのです。

 私たちは、家族が「見えない手で触られる」という何とも言い難い恐怖体験に対し、それを克服しようとする意志を、お経を唱えることで「未知の相手」に伝えようとしていたのです。

 「消えて下さい、私たちの生活にもう関わらないで下さい」と願いながらー

 そして、まるでその懇願に応答するように、今にも消え入るような震える声で、少女の声は私たち家族3人のいる部屋で、はっきりと聞こえてきたのです。声を潜めながら、私はユタカに尋ねました。
 
 「この声......壁に貼った神社のお守りの辺りから聞こえない......?」

 「ああ、うん、ほんとだ。僕、さっき、ウトウトした時、何か夢見たんだけど」

 「どんな夢?」

 「うーん、ばあちゃんがさ、『ぎゃーてい、ぎゃーてい』って言っている途中に、『お経は意味ないよ。それより、お腹空いた』って言う声がしてさ。ばーちゃんの枕元に、薄明かりの中で、紺のずきんともんぺの女の子が立っているんだよ」

 「ほんとに......じゃあ、この声は、その女の子の声かしらね」

 「きっと、そうだと思う」

 その後、私が「南無妙......」を3回唱えると、再び、同じ少女の声が、弱々しく、同じ文言を繰り返しました。

 「ナム......ミョウ......ホ...ゲ、ゲキョウ......」

 その声は、あたかも死の間際で、息絶え絶えに、ほとんど泣きながら訴えているような声でした。そういうことが30分ほどの間に数回ほどありました。

 母が触れられつつも、必死で「南無妙......」を唱えているうち、少女は「アッ......」と、小さな苦しげな声を立て、その後、ふっと気配は消えました。時計は、もう朝の午前5時になっていました。

 2008年7月14日の明け方、この少女の「お経を真似する声」を皮切りに、「さまよう霊との対話」という、現実に想像もつかない異様な体験がほとんど日を置かず、毎晩のように始まるようになったのです。(To be Continued......)

2011年8月9日火曜日

第7章「炙り出された正体」ー3ー体を叩き続ける手

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 7月11日金曜日の晩になりました。ユタカが強い眠気に襲われ、机のスタンドの明かりを消した途端、再び壁を叩く音が始まりました。

 時刻は午前3:50 でした。

 その音は、かなり強く、板でできた壁の空洞に、真夜中激しく響きわたりました。

 息子が、うるさくてたまらないため、「止めろ!」と念ずると、音はぴたりと停止しました。彼は、「まだ妙な気配がして、眠れない」とこぼしました。

 そのうち、鈴の音がしてきました。

 その鈴は、私が6月の旅行で買い求めたフクロウの携帯用ストラップの音だとすぐわかりました。

 もうさんざん、こうしたIT機器には嫌気がさしており、何をしても無駄だ、と判断したというのに、アラーム設定やメール、時刻の確認に便利なため、つい枕元の下に押し込んでおくのが毎晩の習慣になっていました。

 私のその携帯は、母の枕の下に押し込んでありましたが、「なぜ鈴の音が......?」と思っていると、妙なことに、母の枕下ではなく、息子の枕の下あたりから、折り畳んだ状態で、ひとりでにポン!と放り出されたのでした。

 この携帯は、寝る前は折り畳んではいなかったのです。

 更に、午前4時、私と母とがトイレに行っている間でした。

 リビングに戻ると、ピアノのそばにあった買い物用の黒いリュックと、ピアノの椅子の上のクッションも、両者共に7m は離れたリビング扉前にまで吹っ飛んできました。

 夜中でも真昼でも、とにかく物が意志を持つもののように私たちをめがけて飛ぶ様子に直面すると、さすがに冷静ではいられません。

 「わっ!飛んできた!すごい勢い、きゃっ!」

 まさに、私たちがトイレから戻り、リビングの扉を開けるのを待ち、狙いを定めていたかのようでした。

 この、携帯が飛び出したりリュックが飛ぶなどの現象の最中、午前3:50~4:00 の間でも、私と息子と母、3人とも、肩や腕、腰など体中のあちらこちらを目に見えない「手」で、触られたり、すーっと撫でられたりしたのでした。

 それは何とも表現し難い、異様な感覚でした。

 そばにいる家族から肩を叩かれるのなら、ごく自然なことであり、何でもないーそれが「普通」であるのは言うまでもないことです。

 しかし、家族3人とも互いに触れあってはいない。そうした状況下において、目には見えない「相手」の「手」だけがところかまわず触れてくる。

 全くなす術がないのです。恐怖の底に付き落とされるがまま、全身を緊張感で強ばらせ、恐怖の「苦痛」に耐えるしかありませんでした。

具体的にこの「苦痛」を表現するとすれば、「生々しい」としか言いようがありませんでした。「壁を叩く」「物を投げる」以上に、「正体不明の存在」からの「じかの接触」であったからです。そして、なぜ「彼ら」がそんなに私達の体に、皮膚そのものに「触れる」のかが、皆目分からなかったからなのです。

 また更に、午前4:20、ユタカの机の上にあったヘッドホンが、4m離れた私の枕元の襖に、凄まじい勢いで投げつけられました。

 我が家の襖は、特殊な造りで、以前も記したように、板でできているため、薬のチューブやティッシュボックスが当たっただけでも大きな音をたてるのです。

 ヘッドホンが襖に当たった時は、あまりに凄まじい音だったため、携帯などの、もっと重い物が飛んできたのか、と思ったほどでした。

 しかし、これ以上にまさに「恐怖の戦慄」とも言うべきは、午前5:00から30分間に渡って起きた、「透明な手で母が40回以上に渡って、体中をトントントン......、と叩かれたこと」でした。

 母は、肩、腕、腰、背中を、「何者かの手」でひっきりなしに叩かれていました。

 「助けて......怖いよ......ああ、肩、腕をしょっちゅう叩くんだよ......」

 「タオルケットにくるまっても駄目なの?」

 「そんなの、関係ないよ......あっ!今度は腰を撫でられた......! まあ、どうしたら......どうしたらいいの......ねえ
え......あっ!今度は背中まで......ああ、嫌だ、嫌だよ......」

 母は起き上がり、学習机に寄りかかり、完全に泣き声になっていました。

 声をぶるぶる震わせ、「みえない手が触れる」こと自体が、鞭で打ち据えられるかのように、その都度「ああ!ああっ!」と悲鳴を上げ、顔を苦痛で歪めていました。

 私の恐怖心は、母の極限にまで怯える様子によって、一層増幅されていきました。

 相手は肉体、実体も持たないのに、母の手を叩いたり、撫でることが可能なのです。

 私たち3人とも「触られる」、しかもある時には母のみが集中的に「攻撃される」-この現実に、私の心には「まさに怪異だ」との印象が深く刻み込まれました。

 霊というものが、肉体を失っても、生前は「魂」として人の心を司っていたのなら、死後もその魂は生き続ける、ということの、これは明らかな証明なのでしょうか。

 それら「霊」が住む異次元とはどんなところなのか、様々な研究がなされています。

 しかし、なぜ人間は死後、異次元の住人となるのかーそんなことは、このように現実世界で異様な体験をしても、はっきりと解明されることではないのではないでしょうか。

 ただ、私はこうした恐怖体験をしても、その場の恐怖を我慢するのが精一杯で、摩訶不思議な「異次元世界」を深く知ろうとする気持ちがすっかり萎えていました。

 息子は、母が叩かれているのは午前5時頃だったため、もう寝ていましたが、母の声で目が覚め、「夢を見た」と言いました。

 「ねえ、変な夢見たよ。ばあちゃんのそばにさ、防空ずきん被った、白骨化した5、6歳の女の子がしゃがみ込んでいるんだ。片手の先だけ、肉が残ってる姿で。白黒で、半透明の姿をしてた。その子の姿が2回も現れたんだ」

 その話を聞いて、確か私と息子とで、「成仏して、お願いだから消えて」と念じたのを覚えています。

 するとユタカがホッとした表情で、「消えちゃった。空気が軽くなった。ばあちゃん、もう叩かれないんじゃない、どう?」と尋ねました。

 母は、先ほどまで途切れることなく「叩かれる、触られる」感覚が失せているのに気づき、驚いた顔になりました。

 「まあ、ホント。もう、どうもないよ」

 「あのね、僕、小学校の時聞いたけど、このあたりも、昔は空襲を受けて、犠牲者が出たらしいって」

 「じゃ、ユタカの夢に出てきた女の子は、その空襲の犠牲者なのかな。その子が、ばあちゃんの肩とか叩いていたのかなあ」

 「さあ......とにかく、この辺、昔、山ばかりだったんでしょ。疎開していたのに、爆撃機がここまで来たんだね」

 そんな会話を交わしていると、私たちの体を触った「手」は、そうした戦争の死者、浮かばれない子供の「手」だったのかもしれない、と考えてしまうのです。

 その日の午後、4時から5時半頃まで、私はユタカとチェスをして遊びました。

 それは、コンビニに売っていた、旅行用のポータブルチェスでした。

 その頃は、いつ、何が起きてもおかしくない異常な日常の直中に身を置いていました。だからこそ、何らかの気晴らしが私にも息子にも必要だったのです。

 私はたいてい先が読めず、駒をどう動かせば良いのか行き詰まり、勝つのはいつも息子でした。こんな遊びの時の彼はウキウキと楽しそうでした。

 「もう1回戦」と2回目のチェスの最中、5時40分頃、急にユタカが耳をそばだて、チェスを止め、私を不思議そうに見つめました。

 「......何だろ、この音......?」

 「えっ?音?」

 「ほら、なんか人が喋ってる。ラジオの音声みたい。ラジオ、つけてるの?」

 私の家にCDラジカセはありましたが、山の上のマンションであるため、電波状態が悪く、NHK-FM が聴きたくても入らないので、ついぞラジオはつけたことがないのです。

 「変ねえ。ラジオなんて、つけてないのに......?」

 息子と私は、音声のする方を探し、いったいどこから音がするのか、何から音声が出ているのか調べました。

 そうするうち、音源は私の携帯だと分かりました。

 寝室の私の枕の下に入れていた携帯は、いつも閉じていました。

 それが、誰も触れていないのに、液晶画面とキー操作部分とに大きく開かれており、テレビがついた状態になっていたのです。

 ラジオと思った音声は、携帯テレビの話し声であり、相当長時間、テレビのままだったらしく、携帯はかなり熱くなっていました。

 私とユタカがチェスに夢中になっている間、また「誰か」が勝手に携帯を操作したかのようで、不気味でした。

 ユタカの夢に出てきた、60年以上も昔、太平洋戦争中の「防空ずきんの少女」や、携帯、パソコンなどを自由に扱えるこの現代、「21世紀に生きていた者」などが、時間と空間を飛び交い、私たちの周囲に常にいるような、何とも鬼気迫る気配が、どんどん濃密になっていく感さえ覚えました。

 これらは、まさに、5月末頃予感がした「現象のエスカレート」にほかなりませんでした。

 翌日12日土曜日の午前4時からやはり30分間、母が何十回にもわたり、昨夜と同じように、体のあちらこちらを「トントン、トントントン!」と叩かれたり、すうっと撫でられたりしました。

 震え上がる母には、もうお経を唱えることは不可能でした。あまりの恐怖に汗だくになり、涙さえ流している母が気の毒でもあり、また、身内がこんな目に遭うことがその頃は最大の恐怖でもありました。

 私は、懸命に『般若心経』を唱えましたが、何も効果はありませんでした。

 そうするうち、いつかの晩のように、ユタカが私の背後で「もう、般若心経なんて効果ない。無駄だ」といきなり言いました。

 その言い方は、いつもの彼の言い方とはどこか異なり、棒読みで、感情が全くありませんでした。

 私が振り向き、「どうしてそんなこと、言うの?」と尋ねると、やはり彼自身、びっくりしたように、「えっ?僕、何も言ってないよ?」とたじろぎながら答えるのです。

 2~3日前も、息子は夜中に突然、「般若心経は、はがせばいい」とやはり抑揚のない調子で言いました。それも、私と母とがお経を唱えている時に必ず言い出すのです。

 私が、「なぜ、『お経をはがせばいい』なんて言うの?」と不審に思って訊くと、やはりいつもと同様に、驚いて、我に返ったように答えるのです。

 「ええ?僕、そんなこと言った?何か無意識に言った気もするけどー自分でも、何言ってるか、意識してなかったよ。僕が、『お経はがせ』なんて言うわけ、ないじゃない?お経は、はがしたら絶対にダメだよ」

 この「お経は無駄だ」といった内容は、実際、8月に入って、数多く訪れた「霊」の中で、最も私たちが「忌まわしい」と震え上がった「女性の霊」の口から語られた内容でした。

 そのことを考えると、7月の中旬頃から、その霊は息子に接近し、「憑依」し、無意識の息子に自分のメッセージを語らせていたのではないか、と思わざるを得ないのです。

 しかし、「憑依」との言葉自体に、私は絶対的な確信を抱いていたわけでもありませんでした。ただ「憑依」との言葉が思い浮かび、息子の様子にはその表現が該当するのではないかと感じていただけでした。

 「霊」や「憑依」といった表現は、通常経験するはずのないことを経験していたために、自然と浮かぶものなのかもしれません。それら奇異な言葉のイメージは、2008年5月の「現象の始まり」以前に、テレビや雑誌などの「心霊特集」などを通じ、それを見た多くの人々と同様に、根拠もなく焼きつけられた一種の概念に過ぎないのでしょう。

 それでも、その「一種の概念」が、真実味を持って私の日常生活を浸食し始めるほど、2008年の夏の経験は想像を絶するものだったのです。「霊的存在」など「あるはずない」と思っていた私たちが、その存在を身近に感ずるほどにー
 
 「家族以外の者に肩や腕を叩かれる」といった「生々しさ」は、このような「霊的存在」が、自らその実在を私たちに示すための、更なるステップだったのかもしれません。

 それでも、私たちは、7月のこの時点においても、この怪体験を「霊の仕業」だと確信していたわけではありませんでした。「霊」という言葉も、その場その場で、自身の心を納得させるために使っていただけのように思います。しかし、私たちの意に反し、この異様な「生々しさ」は深刻さを増していくばかりでした。(To be continued...)

2011年6月21日火曜日

第7章「炙り出された正体」2ー火の玉の映像


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 7月8日の午前2時頃、またはっきりと壁の音が隣の部屋から強く響き出しました。もちろん無人の部屋からなのです。何かを訴えるように、「コンコンコンコン......」と、際限なく続きました。

 私と母とは、懸命に『般若心経』を唱え続けました。こうすることで、音が徐々に止むこともありますが、なかなか止まないこともありました。「お経」というものに、私は何らかの意味があると考えたこともありませんでした。ただ、「現象」が起こる前は、ただ法事やお葬式の時だけ必要なものといった単純なイメージしか持ち合わせていませんでした。

 しかし、壁の音がするなどの「有り得ない出来事」、ラップ現象に関しては、なぜか「お経が効く」と闇雲に信じていたのです。お経には、仏教の根本的思想が説かれているにも関わらず、漢字の羅列と独特の読み方と節で、「亡者の冥福を祈る」「悪霊を退散させる」といった固定化かつ形式化した観念しかありませんでした。

 3年前の6月以降、そうした観念に従い、お経を家中に貼り、ただ意味も分からず、「音がする」とか「物が飛ぶ」などの怪奇現象が起こると、ただ夢中で唱えるしか方法がなかったのだと思います。

 数分後、音は鎮まりましたが、そうした生活の只中に置かれた13歳の少年には、現在の状況が一時的に混乱したのでしょう。彼は、ふと、3月初旬から登校していない記憶を失い、「僕、ずっと学校に行ってるよね。今は、まだ1月なら、春から2年生か」と言ったり、「なんでお経を部屋に貼ってるの」などと訊いたりしました。

 「どうしたの?学校には3月から行っていないじゃない。もう、2年生なんだよ。それに、お経は、ほら壁の音がしたりするから、その原因が分からないけれど、家中貼ったら効果があるかって、ユタカも言っていたじゃない......?」

 私がそう言うと、彼は「ああ、そうだったっけ。僕、今、変なこと言った気がする。でも、もう思い出せないけど」などと言いました。

 この晩、壁の音と共に、「ベランダに誰かいる気配がする」と息子は言いましたが、その後、一見平気そうでいて、そういった異様な状況に心が緊張し、「今は家にいて、ずっと変なことが起きている」事実が彼の脳裏から数分間失われたようでした。

 私と母とは、懸命に『般若心経』を唱え続けました。こうすることで、音が徐々に止むこともありますが、なかなか止まないこともありました。

 かつては「お経」というものに、私は何らかの意味があると考えたことは一切ありませんでした。ただ、「現象」が起こる前は、お経は「法事やお葬式の時だけ必要なもの」といった単純なイメージしか持ち合わせていませんでした。

 
 私自身、心が緊張状態だったにせよ、記憶が混乱することはありませんでした。それでも、3年前の記憶は相当痛烈なトラウマとなって私の心に焼き付いたのでしょう。3年もたった今年2011年になって、よく悪夢にうなされるようになりました。

 先日も、明け方、奇妙な夢を見ました。目の前の机に青いグラスが二つあり、左側は空っぽで、右側には水が半分ほど入っています。その青いグラスがいきなり勝手に机の上で奥の方へと左、右の順ですっと押しやられます。私は、その光景に「きゃっ!」と声を上げます。

 更に水の入ったグラスがすうっと上に浮遊し、空の左のグラスへと水が注がれる、ということが起こります。水はすぐそばのデスクトップパソコンのキーボードを濡してしまいます。「パソコンが壊れる」と心配しつつも、あまりの恐怖にその場にいることができず、慌てて部屋を飛び出す―

 そうした夢を見た後は、5分ほど「夢か現か」はっきりせず、たった今起きたことのように、息を切らしているのです。

 「物がひとりでに動く」という現実を、3年前目の当たりにしながら暮らしていた時は、その異様な状況に奇妙な慣れができていたのか、驚きながらも「怖い、逃げ出したい」とは思わなかったのです。

 その時に堪えていた緊張感が、そんな異変が起こらなくなった3年後、トラウマとして記憶の中で一気に解放され、再び夢の中でも恐怖体験をしなければならなくなった、というのは、何と因果なことかと感ずると同時に、「やはりあの3年前の事件は本当に起きたのだ」と改めて恐ろしく思うのです。

 翌日2008年7月9日には、再び携帯やPSP などに不思議な現象が起きました。

 この日の午前1時半頃から、母が、突然「何者か」に肩をトントン、と叩かれたり、腕を撫でられたりすることが頻繁になりました。

 私やユタカではなく、もっぱら母が触られるのです。

 母は、「わっ!触られたよ!」「今度は肩!ああイヤだ、まあ、また叩かれた!」と声を震わせ、「寝られやしない」とタオルケットにくるまり、上半身を起こして布団に起き上がっていました。

 私は、自分も叩かれたらどうしようと、母から少し体を離して、こわごわ尋ねました。

 「まだ、叩かれるの……?」

 「ああ怖い、怖いよ……まあ、まただよ!今度は手の甲を強く叩かれた……どうしたらいいの……わっまた肩を5回も強く……!あああ、もう……」

 母の怯え方は、恐怖に耐えられない苦しみが、そのまま震える声になって押し出される、という大変なものでした。母のその恐怖は、私にもすぐ伝わりました。

私はユタカに「どうして、おばあちゃんばかり叩かれるんだろね……?」とそっと聞きました。

 ユタカは壁にもたれながら、そんなに怖がらず、「さあ。きっと、『叩いている相手』は、おばあちゃんに用があるんじゃない?」と母の様子を少し可笑しそうに見つめて、そう答えました。

 「なんで、おばあちゃん見て笑ったりするの?怖いのに」

 「いや、怖いというよりさ、ばあちゃんの怖がり方が大げさなんだもん」

 私はこの間、『般若心経』を何回か唱えましたが、母が叩かれることは止まりませんでした。

 母の枕元には、私の携帯が置かれていました。私は、母が朝8時に起きるよう、アラームをセットしていました。その携帯が、いきなり「ピピピピピ……」と音を立てました。

アラームが鳴ると、メロディが鳴るようにしていたため、その「ピピピ」という音は、アラームとは関係ない、とすぐに分かりました。

 すぐに携帯を手に取ると、時刻はもう午前4時半でした。

 奇妙なのは、アラームとは関係ない時刻に設定していない音がなっただけではありませんでした。

 携帯の画面には、何らかの動画が撮影されており、それが再生途中で停止した状態だったのです。

何の映像かとよく見ると、それは全体が赤く光ったものでした。停止を再生に変えて、映像を見てみると、それは火の玉がゆらゆらと揺れている様子を撮影したものでした。

 どこをどう撮影しても、火の玉がうごめく画像など、家の中にはあるわけがないのです。私は母に、携帯の画面を見せ、「変だよね。なんでこんなものが映っていたんだろう」と話しました。

 「火の玉」というのは、昔、もう亡くなった私の父方の祖母が、私に話してくれたことがありました。

 祖母は、よく夜中に『番町皿屋敷』などの恐怖映画を観るのが好きで、小さい頃、私が夜起きてお手洗いに行くと、祖母の部屋から「ドォーン、ドンドンドンドンドン……」というテレビのお決まりの不気味な効果音が聞こえてきたものです。

 祖母は、「夜、お墓に行くとね、火の玉がふわ~り、ふわ~り、と飛ぶのが見えるんだよ。なんでか、知っているかね」と6歳頃の私に話しました。

 「知らない。『火の玉』って何?なんでお墓を飛ぶの?」

 「あれはね、死んだ人の魂が『火の玉』になって、この世を彷徨っとるんだよ。大きくなったら、お前にも見えるかも知れんね」

 その話で、私は幼心に、「お墓は怖い」とのイメージが焼き付いてしまいました。8歳頃まで、救急車のサイレンも、夜、街中に響くと恐ろしくてたまりませんでした。何故かというと、それは祖母か誰かに「救急車にはね、死んだ人が乗っているんだよ」と教えられたためかも知れません。

 幼少の頃の恐怖が、大人になり息子が13歳になっても心にこびりつき、「墓地」「死者」「火の玉」が怖くてなりません。

 その私に、現実に、誰が撮ったかもわからない、「火の玉が飛び交う映像」が携帯に動画として残されていたのです。

 ユタカは、「何?『火の玉』が映っているの?」と私の携帯を手に取り、「ふ~ん、何だろ、これ。ねえ」と呟き、携帯をパタンと閉じました。

 その直後、彼は「痛っ!」と携帯を落としてしまいました。

 「何、今どうしたの?手を振ったりして」

 「びっくりした。誰かに手を『バシッ!』と横から叩かれたんだ、携帯を払いのけるみたいに」

 「手を叩かれたの?それで携帯落ちたんだね」

 私はそう言って、布団に落ちた携帯を拾い上げました。

 その瞬間、「まさか」との疑念がよぎりました。急いで携帯の画面を開けると、案の定、「火の玉の映像」はすっかり消去されていたのです。

 これは、6月頃、「踊るスタンド」や「開く箪笥のドア」の映像が、消去されたのと同じだと感じました。また、5月の末頃、「どこかの家の床と粘土状の顔」が、いつの間にか、「誰か」によって撮影されていたことと、状況は似通っている、とも思いました。

一体、誰が、何の目的で、異様な映像を携帯を用いて撮影するのか。

そして、その映像を「私たち家族」が確認した後、「消去」するのか。

原因も分からないからこそ、不気味さは残りました。

 もしかしたら、私たちが何かをきっかけに霊体質となったのを「霊界の者」が感じ取り、何らかのメッセージを伝えようとしていたのかもしれません。彼らには「メッセージ」であっても、私たちには「不気味なもの」でしかないのです。

 「霊界」とは、「現実世界=生者の世界」とは次元が異なり、肉体という実体を失った霊魂は、「壁をすり抜けたり生前の顔が巨大化したり、何キロも先の場所から一気に行きたい所へと瞬間移動したりする」という解説を、テレビの「心霊特集」か何かで聞いたことがあります。

 すなわち、「この世」は3次元であるが、「あの世」は4次元なのだ、ということです。

 自分がこんな超常現象に遭わなければ、「あの世」なんてあるわけない、と思っていました。しかし、現実に体験すると、その解説は真実なのだと思わざるを得ません。

そして、その「4次元世界」からの訪問者たちは、徐々にその存在を私たちの前に現しつつあったのです。その直接的な「接触」として、「母の肩を叩く」ということが起きたのかも知れません。

 7月9日の午後1時50分頃、今度はPSP に「怪現象」が起きました。

 3日前の6日、息子はYouTubeを見ながら、私を呼びました。

 「ねえ、これ見て。『奇妙な生物たち』っていうタイトル。宇宙人だっていう画像も載ってる」

 私がそれを見ると、観ただけで気分が悪くなるような、異様な生物の写真が次々と現れては消えて行く画画でした。ハリウッド的なメークでも施したのかと思うほど、眼球が一つだけ頭の上に飛び出ていたり、口が左右に裂けているバケモノのような画像ばかりです。

 それの奇妙さに合うような、これまた胸が悪くなるようなメロディが同時に流れていました。

 「なんでこんな動画を見たりするの?嫌じゃない。夜だって昼だって、変なことが起きるのに……」

 「僕、平気だよ。面白いもの。この曲が、変わってていいなって。だから、今、曲だけをPSP に転送してるだけ」

 それは昼間のことでしたが、翌日7日の夜中AM0:30になると、PSPから、その「奇妙な曲」だけが自動的にに何回も再生されて流れ続けるのです。


 「ちょっと……!怖いじゃない、何でこの曲ばかりなの?気色悪いったら」

 「僕何もしてないよ。他の曲、聴こうとしても、自由がきかないんだから。勝手に再生されているんだ」

 「でも、もう嫌になっちゃう。選りに選ってこの曲ばかり、気分悪い」

 「じゃ、止めてみる」

 ユタカがPSP に触れようとした途端、「ウワッ!ビリッときた!」と慌てて手を離しました。彼は、「磁石のような強い力で、指が払いのけられた」と言いました。そして再びその「奇妙な曲」が流れ出しました。

 彼は、PSP の電源を切ってしまいました。それでも、自動的にON となり、その嫌な曲が始まりました。

 ユタカは今度はロックを選びスタートさせましたが、また途中でその変な曲が勝手に流れ出してしまうのでした。


「う~ん……もうこんなじゃ、一旦、全部消すしかないね」

 「えっ?PSP の中の曲全部?いいの?」

 「うん、パソコンに好きな曲は整理してあるし、そこから、この曲だけ削除して、またPSP に転送するだけだから、いいよ」

 そして、息子は7日夜半ににPSP 内の曲全部を消した後、9日の午後になるまで、用心のためか、パソコンから曲を転送してはいませんでした。

そろそろパソコンからPSP に曲を転送しようと、何気なく彼はPSP を眺めていた時でした。

「あれっ?PSP が変になってる。全体の空き容量がすごく減ってる」

 ユタカがそう言うので、私は一瞬訳が分からず、聞き返しました。

 「全体の空き容量が減ってるって、どういうこと?」

 「ほら、3日前に、僕、PSP の曲、全部消去したでしょう。だから、今は、PSP は大分空っぽのはずなんだ。MUSICの分だけ、削ったんだから」

 「そうねぇ。それなのに、空き容量が減ってるの?」

 「ほら、MUSIC の部分、空き容量が変だよ」

 息子は、PSP 内のMUSIC のプロパティを私に見せました。確かに空き容量がほぼ埋まった状態でした。

 曲のリストを見ると、3日前に消したはずの曲が全部、PSP 内に元通りに収録されており、何回も再生されて気色悪いと一緒に削除したはずの「奇妙な曲」は、何故か他のクラシックやロックの中に混ざっていたのです。

 PSP 内の全曲削除した分を、再び元通りにPSPに戻すには、パソコンとPSP をUSB ケーブルで繋ぎ、転送する作業をせねばならないのです。その作業を、息子がする以前に、また「家族以外の誰か」が全てやってのけた、ということなのです。

 携帯、パソコン、PSP と、この10年ほどで急速に発達したIT 機器に異様な現象が立て続けに起こると、嫌でも、そうした製品に神経質にならざるを得ません。

 パソコンは寝る前には蓋を閉め、段ボールに入れ、携帯は布団の下に押しこみ、PSP は電源をオフにし、ケースに入れようと私は言いました。それでも、PSP は「夜、クラシックを聞いて寝たい時もあるし」とユタカが言うので、ケースに入れずに、彼の枕元に置くことにしました。

 7月10日の夜半を迎えると、再び「現象」は活発になりました。

 AM0:30、ユタカは口を洗いに洗面所に行く時、リビングの椅子にかけてあるタオルのそばを通った時、「ねえ、今このタオル、『ビリッ!』としたよ」と言いました。

 「静電気のような?」

 「違う。濡れてるタオルだもん、静電気じゃないよ。なんか『霊気』みたいな変な感じ」

 彼が洗面所に行くと、プリンター上の通販パンフレットが、再びポーンと吹っ飛びました。

 私は「わっ!」と声を上げて、プリンターから飛ばされたパンフレットが魔物の化身かのように、思わずその場を後退りました。そのパンフレットをまたプリンター上に置いたかどうかは忘れましたが、「とにかくまた始まった」と、寝室に入り、母と『般若心経』を3回ほど唱えました。

 その頃には、父からも「うまいな」と言われるほど、『般若心経』のリズムは覚えていました。その時でも、「魔物退散のためにお経を唱える毎日なんて」と、ほとほと嫌々ながら唱えていたように覚えています。ただ恐ろしく、そして苦しいだけでした。現在では、『般若心経』という言葉を聞いただけで、恐怖の3年前が蘇り、ぞーっとするほどです。

 お経を唱えていると、また隣室から「コンコンコン」と壁の音が聞こえてきました。私は毎日のことながら、壁の音がすると、ゾクッとすると共に、無人の部屋に「人がいる」かのような気配を強く感じ、嫌な気分になりました。また、「なぜあのパンフレットばかり飛ぶのかしら」と気にもなりました。

 また現象が起きる直前に、大抵の場合、息子がすごい眠気に襲われるのも不思議でした。

 この晩も息子は布団でうつ伏せに寝ていましたが、壁の音にふと目を覚ましました。母はトイレに行くと言って、襖を開けて部屋を出ました。

 私は襖を開けたままにされるのが怖くて落ち着かず、「閉めてってくれたらいいのに」と独り言を言いながら、襖に近寄りました。


 すると、背後で息子が急に、低い声で「ふふふふふ……もう『般若心経』なんて唱えても意味がない……」などと呟きました。
 
 私はドキッとして振り返り、「なぜ、笑うの……?何が可笑しいの……?」と異様な印象を彼に抱きながら問いかけました。

 私の質問に、ユタカは驚いた調子で、「えっ?僕、今、笑ったりなんてしてないよ!」と不思議そうに答えました。まるで「何かに心を操られていたか」のように、我に返った様子なのです。

 母がトイレから出て、洗面所で手を洗っている音がしたので、私もトイレに行こうと、襖を開けました。

 襖を開ける直前、リビングで「ガッターン!」と物がぶつかるような激しい音がしました。急いでリビングを見ると、普通に立ててあった、テーブルの椅子が真っ直ぐ後ろに倒れており、その椅子の上に置いていた私のクッションが、廊下側のリビング扉近くまで投げ飛ばされていました。

 時刻は、もう午前1時半でした。

 私は、ユタカに「ねえ、ちょっと大変よ」と声をかけても、彼はまたうつ伏せに寝ており、彼の枕元に置いていたPSP から、再び例の「『宇宙人の動画』のBGM 」が勝手に流れていました。

 「こうした異様な現象と、この異様な曲とは相性がいいとでもいうのか」と思い、うんざりした私は、急いでPSP の×マークを押して、電源をオフにしました。すると、その気配で息子は起き、PSP は自分の枕元の布団下に押し込みました。

 彼はまだ眠そうに、「そう言えば、さっきさ、ガターン!って音がしたけど」と言いました。

 それから10分後、ユタカは「喉がカラカラ。何か飲みたいなあ」とリビングに行こうとしましたが、ふと警戒した様子で布団に潜り込みました。

 「ねえ、今、リビングに誰かいる気配がする。襖の入り口にお経を貼ってるから、相手はこっちを見ることができないみたいだけど……」

 そうして彼はまた眠ってしまいました。

 私は午前4時頃からやっと寝て、5時40分頃、トイレに起きました。すると、今度は寝室の襖に接したピアノの椅子が、先程のテーブルの椅子と同様に、真っ直ぐ後ろに倒れていました。

 ちょうどその時、「やっぱり喉が渇く」と起きて来た息子に私は言いました。

 「ねえ、誰でも、よほどだらしなくない限り、椅子を倒しっ放しにしないでしょ。なのに、テーブルも、ピアノの椅子もこんな……変だよね」

 「うん……僕、何か寝てない気がする」

 「え?ずっとよく寝ていたよ」

 「何となくね、ずっと、人がリビングのテーブルの上に立っている気配がしてね、眠れなかったんだ」

 「『誰かがリビングに入り込んでいる、般若心経には目を背けている、テーブルの上に足を乗せて立っている』」-

 息子のそうした言葉に、私は実体の無い「相手」の「存在」に不吉な確信を抱きました。

 この7月10日前後から、ただ単に物が飛んだり倒れたりするだけでなく、母が触られたり、息子が言うはずもないことを「取り憑かれた」ように無意識に呟いたりすることが多くなりました。

 私は、息子の「また室内に人がうろついている気配」との言葉と同時に怪現象が起きることから、我が家の暗闇に「何者か」が、もう完全に居座り、姿を現す機会を伺っているような息遣いさえ感じ取れる気さえし、「何が始まろうとしているんだろう」と、心配は一層強まっていきました。
(To be continued......)

2011年6月13日月曜日

第7章「炙り出された正体」1ーエクトプラズムの破片

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7月3日は、ネット注文もしていないソフトが届いただけでもゾッとしたというのに、その翌晩、4日の午前2時にも現象は起きました。

 よくティッシュボックスが勝手に飛ぶので、その日の夜半も、息子の布団の下に、箱を押し込んでありました。

 午前1時58分、ユタカが眠気が強くなり、「もう、寝たい」と部屋の電気を暗くした途端、その箱はいきなり布団の下からふっとすり抜け、横に寝ていた母の額に「あ痛っ!」というほどぶつかったのです。

 4日の午前11時頃、私は目を覚ましました。ふと息子の枕元を見ると、透明に近い緑色のかけらが散らばっていました。最初は消しゴムかと思いました。
触ってみると、ユタカが2、3歳の頃、従兄弟や近所の子と遊んだゼリー状のものであることが分かりました。

 「どうしたの?」ユタカが私の手元を覗き込みました。

 「どうしたのって、これ、何だろうって思って......あっそうだ、思い出したよ。よく、えっちゃんやユウちゃんと遊んでたスライムだったよね?あんな昔のがまだあったの?」

 すると、息子は神妙は表情になりました。

 「これ、スライムじゃない。これは、『エクトプラズム』っていうんだ」 

 「エクトプラズム......?それ、何?」

「霊感のある人間から、霊が吸い取る生命エネルギーみたいなのだよ。僕は、このエクトプラズムを利用されていたから、こうして布団の上にかけらが散らばる。でも、このエネルギーを利用されていたことが僕、よく分かったから、『もう利用されるもんか』と強く思ったんだ。だから、もう何も起こらないよ」

 私は彼に、その「エクトプラズム」という言葉はどこで知ったのかと尋ねました。彼は、映画『ハリー・ポッター』に出てきた、と答えました。

 確かに『ハリー・ポッター』は魔法界の物語であり、そこにはごく自然に死者の蘇生や亡霊の出現が描かれています。しかし、私は、エクトプラズムなる言葉は、この時、息子の口を介して、初めて知ったのでした。何度も一緒にDVD や映画館で観た作品であっても、私はその言葉を聞き逃していたのかも知れません。

 しかし、その「エクトプラズム」は、実在する物質であるということを知った時は驚きました。

まず、その記述は、佐藤愛子さんの『私の遺言』にも登場します。

 ―霊は霊体質の者からエクトプラズム(心霊現象において、霊媒の身体から発する生命エネルギーが物質化したもの)を取って現象を起す。
(『私の遺言』 pp.58-59)

また、Wikipedia においても、「エクトプラズム」の詳細が描かれています。

 それによると、「エクトプラズム (ectoplasm) とは、心霊主義で用いられる、霊能者などが、『霊の姿を物質化、視覚化させたりする際に関与するとされる半物質、または、ある種のエネルギー状態のもの』」とあります。

 ―これが体外に出る場合、通常は煙のように希薄で、霊能力がないと見えない場合が多いとされている。
 逆に高密度で視覚化する際には、白い、または半透明の「スライム」状の半物質で、「霊能者の身体、特に口や鼻から出て、それをそこにいる霊が利用し物質化したり、様々な現象を起こす」と説明されている。―

 私が薄気味悪く感じたのは、この「そこにいる霊が利用し物質化したり、様々な現象を起こす」との記述であり、更に以下のような説明でした。

 ―つまり、死を迎えた者の肉体から、霊体、あるいは霊魂が抜けた以降には、その死者はこの世に干渉したり、物質に作用を及ぼしたりすることが不可能となる。

 そのため、そこに居合わせた霊媒体質の生者のエクトプラズムを利用し、時には、ポルターガイスト現象のように、物体を手を触れずに動かしたり、ラップ現象として、誰もいない所から音を鳴らしたりする。―

 私たちは死者ではなく、紛れもない生者です。しかし同時に、奇遇にも「死者」たちにとっては「そこに居合わせた霊媒体質」を持つ者であり、今までの奇怪な現象は、こうした奇妙な体質の者が持つ「エクトプラズム」を「霊」たちが存分に利用した結果、起きたことだった、という現実に、背筋が寒くなったのでした。

 また、「霊=死者」は、もはや「死者の肉体」に用がなく、「霊媒体質の生者」に強い関心を抱いていたのだ、ということが明らかになったことも、私を震撼とさせました。

 もはや、私たち家族にとって、「死者」との分け隔てはなく、「死者」が私たちを必要としているのです。

 こうなってくると、ユタカの枕元に分散していた「緑色で半透明の破片」が、「エクトプラズム」であることはほぼ疑いがありません。

 我が家の超常現象は、彼の体から、霊が「エクトプラズム」を大量に奪い取り、壁を叩いたり、物を凄まじい勢いで飛ばしていたのでしょうか。

 そのためなのか、息子は全くの栄養不良に陥った飢餓下の子供のように、関節の骨だけが異様に浮き出し、13歳ではなく5歳の幼児のような細い細い手足となっていました。

 しかし、その「エクトプラズム」も、息子からだけでは足りず、私からも「奪われていた」ことが、後になって判明したのでした。

 それが「判明した」のは、ポルターガイスト現象が絶頂期に達した、ほぼ1ヶ月後の8月になってからであり、我が家に訪れた数々の霊の一人の「口」からその事実を私は直接、聞かされたのでした。

 そうした無数の霊魂たちが我が家に結集するには、透明だが確実な地盤を一歩一歩、踏み固めて前進すること以外に無かったかの如く、超常現象は日々、着実にその様相を激化させていきました。

 息子は「僕は『エクトプラズムに二度と利用されない』と強く思った。だから何も起きない」と語りましたが、それは、彼の、この奇妙な現実に対する恐怖心へのせめてもの拮抗だったに違いないのです。

 普段は平気そうにしているが、まだ13歳と半年という、非常に感受性の強い年頃に、毎日のように魔界の現象と直面せねばならない。そうなると、精神的な防衛本能として、「これはもう起きない」とか「起きても怖くない」と思わざるを得ないのではないか。

 私はそう判断しました。

 実際、この7月初めか中旬頃、彼が朝起きて洗面台に立っていると、「うわーっ!」と凄まじい叫び声が聞こえました。

 私が慌てて洗面所に駆けつけると、鏡がびっしょりと濡れ、水滴が洗面台に滴っていました。

 「......どうしたの?なんでこんなに水、かけたりしたの?」

 ユタカは恐怖に強ばった表情で、鏡からふらふらと後ずさりしていました。

 「だって......血......血が......」

 「えっ......!血?」
 
 「僕、顔を洗ってたら、目の前に見慣れない物が映って......それ、真っ赤な血だったんだよ」

 「え......ホントに血が、鏡についてたの?」
 
 「うん......びっくりして上を見たら、鏡の天辺から血がたら~っと流れていたんだ。だから、僕......うわーって叫んで、慌てて水をぶっかけたんだ」

 誰でもそんな状況に遭遇したら、一刻も早く目の前の現実を消し去りたいと感ずるでしょう。それなのに、私は息子のその恐怖になぜか鈍感になっていたのです。

 「そんな......血が鏡にべったりと流れているんだったら、水をかけないで、お母さんに見せてくれたらよかったのに」

 「そんな!そんな暇なんかないよ。お母さんに見せようなんて気も起きないよ。とにかく、もう怖いから水を急いでぶっかけて、血を流したんだもん」

 息子の言い分は正当なものなのです。私は、自分でも、あの時、なぜそんな鈍感なことが言えたのか、自分の感覚が分かりません。

 「怖いことが起きるのは、この家ではもう当然じゃないか」との妙な感覚が日常を支配していたとしか思えません。

 しかも、「鏡に滴る血を、水をかける前に見せてほしかったのに」だなんて......まるで、火事や交通事故の瞬間を見たがる野次馬のような心情になっていたのです。

 このことがあったのは、7月5日~6日であったのかも知れません。というのも、その日付の記録が、私のノートには無いからです。

 しかし、この「鏡事件」は、まだ「霊」が私たちに「口をきく」以前のことであり、昨日のことのように鮮明に覚えています。

 息子は、鏡の血にはあからさま恐怖を示しましたが、7月7日には、異様な出来事に対し、ごく冷静に対応していました。
 
 この日、午後1時頃から30分間にかけて、再び「ポルターガイスト」現象が起きました。

 ユタカは、午後の薬をグラス一杯の水で飲んだ後、「すごーく眠たい」と言い、まだ水の残ったグラスのそばのテーブルに顔を突っ伏しました。

 「眠たいの?夜が遅いからねえ」

 「ん......薬のせいかも知れない......」

 彼はそう言うと、そのまま寝入ってしまうかと思うほど、ぐったりと痩せた腕を曲げ、その腕を枕に目を閉じていました。

 私はだるそうにテーブルに上半身をもたげている息子の隣で、ため息をつきました。

 その瞬間、誰も触れていないグラスがいきなり「ガチャーン!」とテーブルに勢いよく倒れ、グラスのほぼ半分が粉々に砕け散ってしまいました。

 ユタカは驚いて顔を起こしました。

 「何が起きたの?」

 「いや、訳がわかんない。あんたが顔を突っ伏したら急に......まるで誰かがすごく強い力でグラスをバシッと叩いたみたいに―それで、ほら、こんなに......変だよねえ」

 「うわすげえ。粉々じゃん」

 とにかく割れたグラスを片づけないと、と用意していると、今度はどこか近くから、「ガサガサッ......ガサガサッ......」と、何か紙が動くような音がします。

 「何の音?何か紙の音がしない?」

 「いや、あれはビニール袋の音だよ......あっ!」

 テーブル脇の床に置いてある亀の水槽のそばには、母が薬局で買い物をした紺色のビニール袋が置かれてありました。

 それが、私と息子の目の前で、突然、ひとりでに、フローリングの床をテレビの方へ向かって、1mほど、スーッと動いたのです。

 よく思い出すと、その買い物袋は、最初はテーブルの上においてありました。それが、いつの間にか、誰も移動させていないのに、水槽のそばへと置かれていたのでした。

 こうした「グラス」や「買い物袋」を皮切りに、この後およそ30分間、様々な変異がリビングと寝室で起きました。それは、まるで、目に見えぬ誰かが、「現象は、ほんのちょっと『生者』を驚かすだけじゃつまらないんだよ」とでも言っているかのようでした。

 パソコン横のプリンター上にあった通販か何かのパンフレットが1mほど離れた床の上に飛び、椅子の上にあった私のクッションが、生き物のように、勝手に椅子から20cm ほど浮き、ポーンと3m 先の床に放り落とされました。

 また、寝室で寝ていた母の足下に畳まれていたタオルケットが、私の枕元の左側に、およそ2mほど斜めにスッと空中を横切って落ち、息子の目が痒い時にあてるハンカチに包んだアイスバッグが、母の枕元右から、私の布団の上へと、およそ1.5m ほど飛んだのです。

 これらの出来事は、すべてほぼ同時か、2~3秒毎に起きました。この騒ぎで、昼寝していた母も飛び起き、粉々になったグラスや物が散乱した室内を呆れて見渡しました。

 こうした現象には、驚きながらも、ユタカは「鏡の血」の時のような恐怖を示しはしませんでした。物が飛ぶのには、「うわっ」と声を上げますが、このような非日常的な異変に対して「平静」を保つ場合もあったのです。

 ひっきりなしに起こるのではなく、毎日の中で、たまに起こる数十分の怪異に対しては、人は、「たまらなく恐ろしい」「これぐらい、いつもとそう変わらない」という平衡感覚を自然に身につけてしまうのでしょうか。

 ちょうど、耳をつんざく落雷の後、たまに空を走る稲光に「あの時は怖かったけど、今度はそうでもない」と感ずるように......
(To be continued......)




2011年4月27日水曜日

第6章「幽現の渦」3―ハイテク機器の怪―壁からの返答・突如表示された「注文確定」画面

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 2008年7月が訪れました。家で異様なことが起きるようになって、もう1ヶ月半が経っていました。その1ヶ月半は、私の今まで経験したことのない、長い長い日々のように思われました。

 一体、何が原因で、奇妙な現象が起きるのだろう。一体、こんな現象に終わりがあるのだろうか―

 そうした疑問や不安を抱えながら暮らしていました。「もう7月か」と考えただけで、他には何も考えられません。

 ただ慰めや気晴らしになることは幾つかありました。

 その中に、テレビドラマやDVD 鑑賞がありました。6月28日土曜日、夜9時から『ごくせん』という仲間由紀恵主演のドラマをユタカと観たりしました。これは、高校の不良生徒たちと、仲間由紀恵演じる女性担任の交流を描いた元気なドラマでした。

 学校が舞台となる映画やドラマは、「学校のことを思い出したくない」ユタカにとって、嫌ではないのかと私は心配しました。

 しかし、ユタカ自身が「これ面白そうだから、観よう」と言って、夢中で観たのです。

 そうした息子の日々の様子を、私は中学のカウンセラーである島田先生に週1回、学校の相談室を訪れては報告していました。

 「きっと、そういうドラマを観ながら、自分の心の中で、苦しかった経験と、楽しかった経験との折り合いをつけようとしているんだと思いますよ」

 島田先生は、そう解釈して下さいました。しかし、私には、息子がそうしたドラマを観ながらも、「折り合いをつける」より、寧ろ、まだくすぶる「いじめに遭った苦しさ」を忘れようともがいているように見える時がありました。

 ちょうど島田先生と話し合いが終わった頃、学年主任の国語の先生が相談室に入って見えました。

 主任の先生は、「夏休みに入ったら、生徒たちも一部は部活で学校に来る子もいますが、夜8時以降は誰も来ません。ユタカ君がもしよければ、学校の図書室を開けてお待ちしてますから、好きな本でも借りにいつでも来てね、と伝えて下さいね」と言われました。

 私は、先生方の好意に感謝しながらも、その提案をユタカが受け入れるかと訝りました。

 帰宅して、そのことを息子に言うと、案の定、彼は「え~?学校の図書室?」と嫌な顔をしました。

 「嫌だよ。学校に行くこと自体、嫌だ。部活の帰りで街の中をぶらついてる奴らに会うかも知れないと思うと、よけい嫌だ」

 私は、島田先生から「物事を強制しないように」と常々言われていたため、それ以上、図書室の話は一切しませんでした。

 私が強制しないのは、先生からのアドバイス以外に、ユタカが、日頃からよく学校に関する悪夢を見ていたからでした。

 「ねえ、嫌な夢を見たんだ。中学が、家の前の小学校の場所になっている。というか、小学校が中学になっているんだ。その中学がさ、原爆投下されたみたいに黒焦げになってて、廃墟の中を、小6の時、僕をいじめた井塚と一緒に見て回るんだよ。

 廊下や教室の壁には、先生たちが、『原爆の影』のように、黒い影になって貼り付いてて......爆弾の炎で一瞬で蒸発したみたいになっている、そういう夢」
 
 私は、彼のそういう話を聞くと、「いじめのトラウマがそうした夢に現れるのか」とぞっとしました。

 また、ユタカは「よく見る夢」と言って、こんな話を度々していました。

 「ねえ、最近、怖い夢見るんだ。ベンチがあって、僕がそこに座ろうとすると、もう先に誰かが座っている。周りが真っ暗で......それが誰だか分からないし、男か女かも分からない。

 そばに知っている人が一人もいない。お母さんも、ばあちゃんもいないんだ。すごーく、不安で、怖い気持ちになって、ベンチから逃げようと走るけど、先に進まない夢。目が覚めると、本当に走った後みたいに、ドキドキしているんだ」

 そういう夢を見ること自体、息子の中学1年時に受けたいじめは、彼の意識の底に深く深く根を張り、容易に癒すことの不可能な心の傷となっているのだ、と私は思いました。

 第三者の方々に支えられながらも、13歳の息子が自分一人で外出もできなくなった状況から、いつ立ち直れるのかが予測もつかないのです。

 また、子供が不登校の状態になってほぼ2ヶ月半後に起き始めた「超常現象」に関しても、解決の糸口が全くない、ということも、私を苦しめました。

 これだけ不可解な、非現実な事象に遭遇していながら、「霊媒者」を名乗る職業の人々に相談することには戸惑いがありました。

 そうした職業の人々の中で、一体、誰が確実に謎を解き明かしてくれるのかが分からず、高いお払い料が飛ぶように消え、余計に悩みが増すように思われ、不安だったのです。

 しかし、現実は、私の悩みや不安をせせら笑うように、不思議且つ奇怪な現象の規模を徐々にエスカレートしていったのです。

 2008年7月1日火曜日、やはり午前1時過ぎ頃から、壁の音が断続的に「コン、ココン......」と鳴り始めました。まさに隣室の無人の部屋に、誰かがいるかのように、骨ばった指の関節で叩く音でした。

 実際、「誰かがいるかのように」ではなく、その無人の部屋には「誰か知らない人物―人であって、人でないモノ」がいたとしか思えません。

 母は、私と就寝前にお経を唱えて、「さあ寝よう」と横になると、すぐに寝つくことが多かったのです。しかし、壁の音が始まると、「まあ、また......嫌だね」と起きてしまいます。

 私とユタカも、その音がどうしても気になって寝付くことができないため、午前3時5分から10分間、PSP でモーツァルトの「四季」を流しました。

 すると驚くことに、その「四季」に合わせ、壁の音が単なる「コン、コン...」ではなく、「コ、ココン、コ、コココココン!」と実にリズミカルに変化したのです。

 「ちょっと......! これって、全く『四季』そのものじゃない......!」

 「ホントだ。すごいテンポうまい。クラシックが好きなのかな」

 私がユタカとこう話している間も、「壁の向こうの相手」は、『四季』に合わせて調子よく壁を叩き続けます。

 驚きを超越すると、恐怖さえも感じなくなるのでしょうか。不意に私は、突飛な試みを思いつきました。それは、「姿の見えない相手」に問いかけてみよう、という考えでした。

 「ねえ、モーツァルトが好きなの?」

 すると、『四季』のリズムが一時止み、「そうだ」と言うように、「ココン!」と返事のような調子で壁が叩かれました。

 私は、その時、奇妙な、高揚した気分に包まれました。

 「姿の見えないモノ」と思っていた相手が、「ちゃんとした意志や好みがあり、こちらの言うことに返答した」ことに、怪異への恐怖が薄れ、異様な感慨を覚えたのかもしれません。

 振り返ってみると、この2008年7月1日の晩のこの出来事が、「冥界との初めてのコンタクト」であり、私にとって、体験するとも思わなかった「異界の存在との直接的接触」の始まりだったのです。

 しかし、もう眠たがっていたユタカは、「もう音楽かけてても、こうして調子に乗るだけじゃんか。消えろよ!」と、その「相手」に胡散臭そうに声をかけました。

 すると、それまで「楽しそうに」叩かれていた壁の音は、ピタッと止んでしまいました。

 その音が止んで5分後、午前3時20分、私はトイレに行きました。

すると、リビングで、本のような結構重たそうな物が「ドサッ!」と落ちる音が聞こえました。

 リビングに戻ると、落ちていたのは、昨夜午前1時少し前に、プリンターから「投げ飛ばされた」『般若心経』の本でした。

 昨夜は、プリンターから2m ほど離れた床に落ちていましたが、今度は同じプリンターから、2.5m ほど離れたリビング扉の前にまで吹っ飛んでいました。

 これも、飛び方が奇妙でした。プリンターから前方の床に「放り投げる」ことは「モノ」にとっては容易いはずです。

 ところが、今回はリビング扉の前にまで「飛ばす」には、いったん上へと浮遊させ、そして90度角度を変えて「投げつける」ことが必要なのです。

 要するに、「姿の見えないモノ」には、不可能なことなど何もない、ということなのだ、と私は改めて思い知ったのでした。

 そして、その『般若心経』の解説書を投げたのは、さっきまで「四季」を「楽しそうに」壁を叩いてリズムを叩いていた「相手」なのでは、と判断せざるを得ませんでした。

 ユタカは、「今度は本を投げるのか。成仏したらいいのに」とピシャリとした調子で言いました。

 ユタカのこの言葉以降、その晩は特に何も起きませんでした。

 壁がうるさかったり、物が飛んだりする時は、周囲の空気が妙に張りつめた感覚があります。

 それは、「私たち以外に誰かがいる」という、何とも形容し難い重い空気であり、いわゆる「奇妙な気配」といったものでした。しかし、一定時間を過ぎ、何事も起こらない平常な状態になると、その「気配」は消えるのです。

 翌日の晩も、一騒動でした。


 午前2時半、ユタカは少し眠気が来たため、音楽をPSP で流しながら寝ようとしていた時でした。家全体に例の妙な「気配」が漂いました。

 ふと玄関を見ると、土間は灯りで煌々と照らされていました。

 この玄関の灯りが「独りでに」つく、という現象は、5月以降ほとんどなかったので、久々に見ると、やはりゾクッとします。

 2時40分、私はトイレに行くのが怖くなり、母を起こして一緒についてきてもらいました。

 それから19分間、再び「物が飛び交う」現象が激しく起きたことが、私の記録ノートに記されています。

 まずは息子の学習机の一番上の引き出しにあった、俗に言う「ガチャガチャ」と呼ばれる百円玩具の丸いカプセルが、10m 先の玄関の土間に吹っ飛びました。

 またほとんど同時に、その引き出しから、小学校高学年から使っていた「ネームペン」が、7m 先のリビング扉の隅へと投げつけられました。

 シーンとした夜中であり、フローリングということもあって、それらの小物が土間や扉にぶつかる音は凄まじいものでした。

 また、この引き出しは、20cm ほど前に引っ張り出された状態になっていました。

 ユタカは、物が目にも止まらぬ勢いで飛んでいくので、「怖い」と、寝室からリビングのテーブルに避難して、その椅子に座っていました。

 そのテーブル側から見ると、学習机のある寝室から小物が「怒って暴れるモノ」の仕業のように、左から右へビュッと飛んで行くのです。

 そして、今度はテーブルの右前にあるプリンターの上に置いていた、私の「記録ノート」が「バーン!」とありったけの力を込めて、寝室前の床に叩きつけられました。

 これは、テーブル側から見ると、ノートが右から左へと飛んだわけです。

このように、部屋中、物が左右、方角構わず、狂ったように恐ろしいスピードで飛び交ったことが、私の「記録ノート」には記されてありました。

翌日7月3日木曜日の午前0:30 頃には、私の歯磨き用の赤いコップが飛びました。

 この時も、私は就寝前のトイレに入っていましたが、トイレの中から、「カラーン!」と小物が転がる音がしました。

 ユタカは洗面所で、トイレの順番を待っていましたが、出てきた私にこう言いました。

 「僕がお母さんを待っていたら、後ろで何かが『コトッ』と動く、かすかな音がしたんだ。何だろと振り向いたら、お母さんの赤いコップがいつもの場所からなくなっていたんだ。あれっと思った途端、リビングの床にコップが投げつけられる音がしたんだよ」

 ユタカの言うとおり、洗面所にあったはずの赤いコップは、リビング中央にまで投げ飛ばされていました。

 この赤いコップは、それ以前にも玄関の土間や廊下に叩きつけられたりしていました。プラスチック製ですが、ひびも入らず、その後もよく洗っては口を濯ぐのに使っていました。

 気色悪いことが起きたコップなのに、度々そういうことが起きると、怪奇現象に対する免疫がつくのか、恐ろしかったことは忘れられないものの、現在でもそれは洗面所に置かれています。

 そんな小物以外にも、この家の中では様々な嫌な出来事が起きたというのに、私たちは依然として、2008年に起きた現象が嘘であったかのように、暮らしているわけです。

 「このテーブルも、この引き出しも、この椅子も、襖も、箪笥も、ガラス窓も、スタンドも、扇風機も、壁も、トイレも、洗面所も......恐ろしいことばかりだったのに、どうしてこの家に暮らせるんだろう」と我ながら不思議でなりません。

 しかし、この家で暮らしを続ける理由は、家を転居したところで、何も変わらないことを、6月の旅行で悟ったからに過ぎないのです。

 怪異が起きるのは、家や土地が原因ではない、私達家族に「何か」が憑いているのだ、と、宿泊先を転々とした結果、理解したからなのです。

 「何の因果で、こんな経験に遭う羽目になったのか」と自分の妙な運命を嘆くこともありますが、普段はそうクヨクヨしているわけではありません。

 それでも、未だに「もう2011年―3年前の出来事は、事実だったことは確かだが、なぜあんなに現象が頂点にまでエスカレートしたんだろう」と、悪夢の日々を思い起こすことがよくあります。

 実際、私は、その時の体験がいわゆる「トラウマ」となり、現在でもたまに悪夢を見ます。

 それは、大抵の場合、目の前に長い髪の女性の黒い影が執拗に迫ってきたり、物が家中を飛び交う夢であり、「またこんな怖いことが起きてしまった。どうしたらいいんだろう」と慄く夢なのです。

 現実に怖い体験をしたせいか、3年経った現在でも、パソコンを使うときにも慎重にならざるを得なくなってしまいました。

 「今表示されている画面が、急におかしくならないだろうか」とか、「この手元に置いている目薬が、勝手に床に飛ぶんじゃないか」などと考えてしまうのです。

 事実、3年前の7月3日、パソコンの画面で信じ難い現象が起きました。

 その日の午後11:30 頃、ユタカは「楽天ショッピング」のゲームソフトの画面を何気なく眺めていました。

 当時、息子が大好きだったゲームは、欧米でも未だに人気の高い「メトロイド・プライム・ハンターズ」でした。

 いわゆる「シューティングゲーム」ですが、このゲームの面白い点は、自分が様々なキャラクターになり、数多い立体的なフィールドを参加者同士で決定し、各々のキャラクターの特性を活かしながら、その疑似空間の中で、スピード感を存分に堪能しながら敵を倒していくことができる、というところなのです。

 また、通信機能も備えているため、日本人だけでなく、欧米のプレイヤー達とも英語でチャットしながら楽しめるという点も、息子がのめり込んだ理由でした。

 ユタカは、このゲームのおかげで、英語が上達し、より英語を身近に感ずるようになった、と言っていました。

 ユタカは、その日の晩、特に買う気はないものの、楽天ネットショッピングサイトで、米国版の「メトロイド」のソフトを眺めていました。

 「ねえ、英語版の『メトロイド』って日本語版より安いんだね」

 彼は、私にそう声をかけましたが、急に、「あっ!やばい!どうしよう!」と驚いた声を発しました。

 パソコンのすぐそばにいた私が、すぐに画面を覗くと、「ご注文ありがとうございました」との言葉が表示されていました。

 「何?この英語版のソフト、買っちゃったの?」

 私がそう尋ねると、ユタカは、全然その気もないのに、突然この画面になったのだ、と困惑していました。

 「僕、英語版は別に要らないんだよ。だって、もう日本語版を持ってるのに、そんなもったいないこと、するわけないじゃない。ただ、ショッピング画面を見てて、間違って、『カートに入れる』をクリックしちゃっただけなんだ。

 そしたら、すぐに『ご注文確定画面』が表示されてさ。僕、買うつもりないから、慌てて『戻る』をクリックしたのに......それよりも先に、パッと、いきなり『ご注文ありがとうございました』って表示が出ちゃったんだ」

 私は、その経緯を聞くうちに、6月の旅行先の最初の日を思い出していました。

 あの時も、チェックインした後、スタッフが掃除に来るはずなどないのに、「すみませーん。お部屋の掃除に来ましたー」という、若い女性の元気な声が部屋の天井にまで響き渡ったのです。

 こちらの望んでもいない「サービス」が勝手に行われる、という点で、両者は似通っている、と感じたのです。

 通常、ネットで何かを買う時には、

 1.ID やパスワードを入力 
 2.商品をカートに入れる 
 3.「現在カートに入っている商品」の確認画面が出る 
 4.配送方法、お支払い方法を選択する画面が出る
 5.最後に、「ご注文確定画面」が出て、配送先の住所(会員登録した際の私の氏名、住所、電話番号、メールアドレス)と、注文した商品と値段を確認
 6.「以下の内容でよろしければ、『確定する』
をクリックして下さい」との表示が出る―

 これら1から6の手順を踏んだ上で、「注文を確定する」ボタンをクリックしない限り、ユタカの見た「ご注文ありがとうございました」との表示は決して現れないはずなのです。

 ユタカは、ネットショッピングの会員になったことなどなく、クリスマスや彼の誕生日プレゼントの際には、すべて私の名前とパスワードで、私自身が商品を買っていました。

 つまり、ID もパスワードも持たない13歳の少年が、うっかり「カートに入れる」をクリックしただけで、ネットショッピングに必要不可欠な上記の 1から6 の手順は無視され、瞬時にして「ご注文ありがとうございました」との言葉が表示されてしまったのです。

 ネットのシステム上、こんなことは不可能です。

 「まさか、本当に『注文を確定する』と、こっちがクリックしていないのに、自動配信のメールまで来ているはずがないよね」

 慌てて、私がメールボックスを確かめると、既に楽天から「ご注文内容の再確認メール」が自動配信されていたのです。

 私は急いで、楽天側に「注文をキャンセルしたい」旨のメールを送りました。しかし、それも無駄でした。

 2日後、佐川急便が、「誰も注文確定していない」はずのメトロイド・プライム・ハンターズの米国版ソフトを届けに来てしまったのです。仕方なく、4800円ほどを支払わざるを得なくなりました。

 この出来事以降、ハイテク機器の異変以上の怪が起き、私達は冥界とこの世を隔てる扉を既に失いつつあったのです。(To be Continued......)

 

2011年2月2日水曜日

第6章「幽現の渦」2―ハイテク機器の怪―part4:SonicStageの削除

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 翌日、6月最後の30日の晩のことでした。この時も物が飛んだり、トイレから音がするなど、様々な怪異がありました。

 午前0:50 頃、まだ私たちはリビングにおり、息子がパソコンに背を向けながら、私と母に話をしていた時でした。

 その時、私たちが立って話していたのか、座っていたのかは覚えていませんが、話の途中、急に息子の背後で「ドサッ!」と重い物が落ちる音がしました。

 見ると、それは、父が知人の方から頂いた『般若心経』の解説書でした。この本は、パソコンのプリンターの上に置いてあったのが、誰かが払いのけたかのように、床に落ちたのです。

 母は、はっきりと「霊」とは言いませんでしたが、「まあー、この本が飛ばされるなんて......きっと『あいつら』は、この本を恨んでいるんだろうね」と畏れと驚きの混じった口調で目を丸くしました。

 その10分後、午前1:00 頃に、私は毎晩就寝前の習慣で、戸締まりと消灯を確認しました。廊下からリビングへと入る扉をガチャリと締め、リビングの明かりを消し、襖を閉めた瞬間でした。

 「ガツーン!」

 また何かが襖に激しくぶつかる音に、ギクッとしました。何かと襖を慌てて開けると、足下には洗面所に常に置いてある父の歯ブラシが転がっていました。

 これは、到底信じ難いことでした。

 洗面所は、玄関土間を上がってすぐ右手にあり、その左手の短い廊下の先に、リビングの扉があるのです。

その扉は、私の手で、しっかりと数十秒前に閉められたというのに、その扉をすり抜けて、この歯ブラシは飛んできたわけでした。もちろん、扉は固く閉じられたままでした。

 私は呆気にとられ、あまりの驚きに、再び恐怖心が麻痺していくのを感じました。

 こんなことがあるだろうか―

 ただ、そう心で呟きを繰り返していました。

 扉や壁で仕切られた空間を、いとも簡単にすり抜けさせるような力は、もはや現実世界ではあり得ない、異次元空間でしか起こり得ないことです。しかし、その時の私には、「異次元」との言葉も思い浮かびませんでした。

 こんなことが一体どうして起こるんだろうか―

 そんな問いが頭の中でくるくる空回りしていました。

 ただ、5月の終わり頃、台所隅のゴミ箱の下の方に押しやるようにして捨てた、ユタカの小さなアトピー薬のチューブが、やはり寝室の閉めた襖に吹っ飛んできて、勢いよくぶつかったことを思い出した現在では、そうした「閉ざされた空間をすり抜ける」現象は、一連の超常現象と同一のものだ、と思い出すことができます。

 2年前の6月最後の晩は、その「ゴミ箱から飛び出したチューブ」のことは、すっかり忘れていました。

 それほど異様に感じ、吹き荒れる砂嵐の埃を掴むことなどできないように、何かが起きても、前後を関連づけることは、当時は全くと言ってよいほど不可能だったのです。

 こうした現象が起きるか起きないかに関わらず、毎晩『般若心経』を母と唱えることになっていた私は、この歯ブラシの件で、まだお経を唱えていなかった、と気づきました。

 そこで、午前1:20 頃から一心に唱え始めましたが、いつものように、隣室から壁を叩く音がスタートしました。

 その音は、「コンコン!」ではなく、いきなり「ドーン!ドーン!」と響き渡る、地鳴りのような凄まじさでした。

 今にも壁が割れるのではないか、と思ったほどで、実際、音が鳴るたびに壁が揺れるのが見えました。

 私は「お経で鎮まれ、鎮まれ」と念じながら、『般若心経』を懸命に繰り返しました。すると、徐々に音はかすかになり、やがて何も聞こえなくなりました。時計を見ると、午前1時半でした。

 ほんの10分間であったのに、無人の隣室からの壁の轟音を耳にし、ゆらゆら揺れる壁を見ながらお経を唱えている間は、真っ暗闇の、上も下もない奇妙な空間の底に投げ込まれているも同然でした。

 現象が収まると、まだ明かりの煌々とついた6畳の、見慣れた寝室に家族と共にいるだけでした。

 さっきまで、壁が揺れ、恐ろしい音が激しく壁から響いていたのが嘘のよう―

 こうした、「非現実と現実」の間を行きつ戻りつしている生活が、もうこれで1ヶ月半、続いていました。

 こんな現象を目の当たりにしている間は、恐怖は不思議と感じていませんでした。ただただ、「早く静かになってほしい」と必死にお経を唱えていただけのように思われるのです。

 けれども、その「必死な願い」というのが、やはり「恐怖」の現れだったと、今では思います。当時は、「恐怖」が現実に起こると、その気持ちを自分自身、「私は今、怖いんだ」と認識できなくなっていたのかもしれません。

 恐怖を認識できないが、異様な出来事を経験した後は、脳も興奮し、体も緊張していたせいでしょう。なかなか寝つかれない私は、午前2:50 にトイレに行きました。

 すると、昨夜と同様、トイレに入った途端、ドアを「コン......コンコン!」と手の甲の関節で素早く叩く音がするのです。

 ドキッとする間もなく、続いて、便座の真向かいの壁を「ドンドンドン!ドンドンドン!」と強く叩く音が始まりました。

 この壁の向こうは、玄関土間の右手に当たりますが、こんな夜中に土間に降りる者がいるでしょうか。母と息子は、寝室で寝ているのです。

 6月中旬の旅行でも、宿泊先のトイレから音がする、という経験をしましたが、トイレに自分が入って、その中で怪音が聞こえてくるといったことはありませんでした。

 身がすくむ思いで、壁の音が止まない中、急いで用を済ましましたが、心臓が苦しいほど高鳴っていました。

 水を流し、焦りながら手を洗っていると、静まり返った廊下やリビングから、「カーン!」「ドサッ!」と何かが飛んだり落ちる音がします。

 また、何が起きたんだろう......?

 魔物の檻から逃れるように、トイレを飛び出し、廊下を見ると、洗面台横に立ててある私の歯ブラシが、洗面所の真向かいにある私の書斎の入り口付近に落ちていました。

 それを元通りにし、リビングに入り、明かりをつけると、今度は私のノートが部屋の中央に落ちていたのです。そのノートは、この6月5日から、超常現象の起きた時間、物、状況などを記録したものでした。

 閉じたノートパソコンの上に置いていたのが、2mほど吹っ飛んだ―

 さっき、トイレの中で聞いた音は、これら歯ブラシやノートの落ちる音だったのです。

 リビングから閉めたドアを隔てたトイレの中で、「ドサッ!」と聞こえたのだから、よほど強い力で、そのノートは叩きつけられたのでしょう。

 2時間ほど前に、やはりプリンターの上にあった『般若心経』が「はたき落とされた」時と同じ印象を私は受けました。

 「霊」を鎮めるために手本としている書物や、「霊」が引き起こした記録を記したノートが、『彼ら』には恨めしいのか、と―

 その日の晩は、それ以上、何が起きたかは記されていません。きっと、もう何もなかったので、午前3時過ぎには寝たのでしょう。

 夜はこのような怪現象に戦き、3時4時にやっと寝る、ということは、この頃にはもうごく普通になっていました。起きるのは、お昼前がやっとでした。

 この6月30日の午後2時頃、遅い朝食を皆で食べた後、息子はパソコンで動画投稿サイトの YouTube を眺めていました。

 「ねえ、『般若心経』で検索したらさ、いろんなバージョンがあるよ。ほら、ロック調にアレンジしたのとか。これ面白くない?」

 私にとって、『般若心経』は、毎晩、何の理由か分からないが、壁を叩いたり、物を飛ばしたりなどの現象を起こす「得体の知れぬモノ」を退散させる護符でした。

 それだけに、必要のない時は、『般若心経』と関わりたくない気持ちが強くありました。あのお経を聞くと、「霊への畏怖」がどうしても沸き起こるのです。

 けれども、息子が「面白い」といった、ロック調の『般若心経』には、私のお経への忌まわしい気持ちを吹き飛ばす明るさが満ちていました。私も、その曲を聞いて笑いました。

 「ほんとに、すごいね。あのお経を、こんなにロックにしちゃうなんてね。歌った人は変わってる。わざわざお経をロックに歌うなんてねえ。でもすごい才能よね」

 「じゃ、これ、SonicStage に転送して、PSP に保存しておこうか」

 SonicStage は、その頃ユタカが夢中になっていた、CD や パソコンからの音楽転送・保存ソフトでした。

 私は CD からのみ好きなクラシックやポップスをコピーしていました。それに興味を持ったユタカが、6月26日頃から、音楽配信サイトからロックなどを取り込み始めました。

 更に、その曲を PSP に保存するようになり、息子はいつの間にか、パソコンや SonicStage を私以上に使いこなすようになっていました。

 彼が、ロック版『般若心経』を SonicStage に転送し、次に PSP に USB ケーブルで保存した、まさにその直後でした。

 「あっ!」

 ユタカは、私が飛び上がるほどの驚いた声を上げました。

 「消えちゃった!全部消えた!なんで?なんで?」

 彼は、信じられないといった表情で、そばに立っている私を見上げました。

 「消えた?何がなの?」

 「急に『削除します』って表示がパソコンに出て―ほら、SonicStage の保存していた曲全部が、ざーっと消えたんだよ!あっと言う間に!」

 私がパソコン画面を見ると、あんなに何十曲も保存していた音楽ファイルが、SonicStage からすっかり無くなり、空っぽになっていました。

 「ああ、好きな曲もあったのに―でも何で急に消えたの?」

 「分かんないよ―今、僕の目の前で、ザーッと次々と消えたんだ。それに、消えていく時、『呪―死―殺』という文字がパッパッと現れては消えていったんだ」

 パソコンは、プログラムが複雑に組み合わされた高性能の機械だから、パソコンに不具合な状況が起これば、「削除しますか?」と出ることは、そう珍しいことではありません。

 しかし、SonicStage に取り込んだ曲を、PSP に転送することは、ユタカは毎日、ごく普通にやっており、そこで不具合が起きた試しはありませんでした。

 不具合が起きた場合、パソコンは「画面でエラーが発生しました。プログラムを終了しますか?」といった表示を出し、ユーザー側が「はい」か「いいえ」を選択する、といったパターンが一般的です。

 そのため、パソコンがいきなり「削除します」との表示を出すのは極めて不自然なことなのです。

 私には、パソコンの頭脳が「削除します」と表示したのではなく、『般若心経』を恨み、それを PSP にまで転送した行為に対する仕打ちをしようとした「モノ」たちが、故意にそう表示したのではないか、と直感しました。

 『彼ら』の怒りは、SonicStage の楽曲データが次々と削除される際にユタカが見た『呪―死―殺』との文字に明確に表明されていたのだ―

 私は、そう判断しました。

 こんな現象が、精緻に組み込んだパソコンのプログラムの中においても起きる。

 しっかりと閉めたリビングの扉を、歯ブラシが洗面所からすり抜けることでさえ、異様に感じたのに、デジタル機器の中身、電子データなどにも、『彼ら』の意志は自由に入り込み、自分たちにとって不都合なことは削除するなど、プログラムを意のままに操ることができる―

 こんなことが可能であるなら、歯ブラシを、閉じた扉から貫通させることなど、『かれら』にはいとも簡単な行為であったことでしょう。

 しかし、パソコンに起きたこの現象は、私にとっては、異様さを超越した、まさに「奇々怪々」そのもので、到底想像できなかったことでした。

 「ねえ、もう『般若心経』を検索するのは止めたら?」

 私は、何かとてつもない事件が背後から襲ってくる異様さに囚われ、息子に懇願しました。

 「こういう変なことが起きるの、嫌だよ。『般若心経』は、カセットテープに録音してあるのだけで、もう十分じゃない」

 泣きたい気持ちになっている私とは正反対に、「ハイテク機器に怪現象が起きた」ことが、ユタカの好奇心を非常にそそったらしく、彼は笑っていました。

 SonicStage のデータがいっぺんに削除された驚きも、彼の旺盛な探求心になぎ倒された様子で、ケロリとして、こう言いました。

 「いや、大丈夫だよ。さっきのは偶然だろ。そんなに何度も起きないよ。ほら、別のリズムで唱えているのもあるし、ゴスペル調のもあるじゃん。これ、いいじゃん」

 ユタカにそう言われると、私の強ばった気持ちもほぐれ、その『ゴスペル調・般若心経』に聴き入りました。

 ゴスペルとは、黒人霊歌やジャズ・ブルース風の、アメリカの黒人教会における聖歌です。

 『般若心経』が、こんなに巧みにゴスペル・ソングになるとは、と正直感動したほどでした。このアレンジされたお経を歌った人は、好奇心に加えて、冒険心もあったのだろう、とユニークに思いました。

 ユタカは、私が興味を持ったことに満足し、早速、YouTube から SonicStage に、いろんな住職の方々が様々なリズムで唱える『般若心経』を2種類と、『ゴスペル調・般若心経』とを転送し、更に、ゴスペル調だけを PSP にコピーしました。その瞬間―

 「あっ!消えた!」

 今度は、親子同時に声を上げました。

 SonicStage に残っていた2種類の『般若心経』のファイルが、目の前で、一瞬にして消えてしまったのです。

 二人して、「どうしてだろう?」と話し合いましたが、無論、答えは出ませんでした。

 結局、『般若心経』を PSP に取り込もうとの試みは、ユタカ自身が「パソコンがバグるかもしれないから」と言って、止めてしまいました。

 その日の晩、午後8時頃、ユタカは再びパソコンの電源を入れ、インターネットを開きましたが、「ねえ、変だよ。これ見て」と食卓に座ってテレビを見ていた私を呼びました。

 私は、パソコンを2003年頃から使い始めましたが、その時から、ネットで新聞を読める便利さに魅力を感じ、新聞購読は止めていました。代わりに、ネットのスタートページに朝日新聞のネット版 Asahi.com を設定していました。

 しかし、「変だ」とユタカに言われて見ると、いつもの Asahi.com は表示されておらず、「空白のページ」と画面左下に記され、モニターは真っ白の状態だったのです。

 更におかしいのは、「お気に入り(Bookmark)」に保存していたすべてのサイトやデータがひとかけらも残さず、消えていたことでした。

 こうした「パソコンの異変」は「パソコンがバグっただけだろう」とのユタカの判断で、あれこれ再起動したりするうちに、何とか元通りになった、と記憶しています。

 しかし、午後10時頃になって、パソコンを使っていたユタカが突然「うわっ気持ち悪い!」と慌てて立ち上がりました。

 「何なの?」

 「何だよ、これ―でっかい指紋―これ、誰の?」

 私がユタカの指さす場所をよく見ると、ノートパソコンのマウスパッドの右側に、縦4cm、幅3.5cm ほどの、足の親指のような指紋がべったりと張り付いていました。

 足の親指全体ではなく、親指の腹だけで、そのサイズというのは、尋常ではない、とすぐに感じました。

 雪男でもない限り、そんな大きな指紋はあり得ません。それに、パソコンの上に、一体誰が足を真っ直ぐに乗せるでしょうか。

 何が何だか分からないまま、ただ違和感と畏怖感に怯えつつ、そのパソコンは蓋をし、「11:30 頃、箱に入れてしまい込んだ」―

 6月最後の私の記録は、これで終わっていました。(To be continued......)